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ゲルマニウムの夜


エロテイシズムは他者にしか発動しない

暴力に対して嫌悪を感じ呆れさせ、笑わせてくれ「さえ」するのが中原昌也の小説だとしたら、花村萬月のそれは笑えない。徹底的に痛めつけ、読んでいてその痛みや吐き気が実感されそうなほどリアルである。ただ人間の本質と言われるものの中に、暴力的な面があり、それを目の当たりにさせてくれるという意味で、ある種「清々しく」もあった。もちろん、中途半端でいやらしい暴力とこの清々しいという感触自体に、価値判断はともなえるはずもないが。


例えば先日読んだ、「美と共同体と東大闘争」(三島由紀夫・東大全共闘/角川文庫)において三島由紀夫はサルトルの「存在と無」を引用し、エロテイシズムは他者にしか発動しないと述べていた。つまり相手が主体的な動作を起こせない、意思を封鎖された状況こそが、エロテイシズムに訴えるのだと。

この作品のクライマックスは、まさにそんなエロテイシズムの絶頂にあった。修道院の農場における、主人公と美少年の同性愛。そこで少年は主人公に対して、無償の「奉仕」を切望した。少年の一方的な「奉仕」に初め主人公は冷静だった。がしかし、その一方通行な愛の態度と、それを受け止めている自分との状況が、まさに意思を封鎖されたエロテイシズムとして最大のたかまりをむかえていた。

そのたかまりには、ある種の宗教性を感じさせている。もちろんそれは、物語全体にも流れている著者の宗教にたいする態度を通して感じられるものだ。残虐な暴力を行う主人公の存在は、恍惚とかがやく特別な存在へと重ねられていた。そのようなある象徴性として、そしてあるリズム、あるいは流れとして、暴力が描写されているように思えた。

2001.09.22k.m

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カテゴリー-小説


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