グランドフィナーレ



群像12月号に掲載されている新作を読んだ。シンセミア以降の作品をこんなにも早く読めるとは思っていなかったのでそれだけで感激なのだが、今回の作品によって何か新たな方向性のようなものを見られたこともまたよかった。

この小説では一見するとロリコンの主人公が自らまねいた困難へ苦悩している姿が延々と描かれているようでもあった。けれど同時に吐き出されているものが、紛れもない現代時評であることも確かだろう。

それは米同時多発テロやチェチェン独立派とみられるイスラム武装勢力がモスクワ中心部の劇場を占拠した事件や、バリ島の繁華街で連続して爆発が起こり外国人観光客を含む百数十人もの被害者を出したテロなどといった実際の事件を持ち出していることや、幼児ポルノ規制や自殺サイトや地方都市周辺の郊外化といった時事的な問題を持ち出していることにも明らかだ。

さらに主人公自身の人生が、最後のバブル期を謳歌しつつも結婚生活に失敗し、地元へ帰り孤独感に追われながらも親の世話になるといった、今や取り立てて珍しくもない日常的な悲劇を背負っていることにも時評が感じられる。

もうひとつ面白いのは、過去の作品を自ら引用しているところだ。離婚した主人公が「神町」へ帰るという時点で、あの「シンセミア」を思い出さずにはいられないが、ご丁寧に作者は洪水やら連続殺人やらの内容を明らかにし、さらに「ニッポニア・ニッポン」の主人公すら関連させているのだ。

このように自己の作品をパロディー的に登場させるというのは、それらが一連の作品群であることを物語っているのだろうか。確かに阿部和重の作品が具体的な時評性を持ち始めたのはその頃からのようにも思える。

さて、これらの時評性がどこへ向かっているのかが気になる。一見すると主人公の生活を襲う苦悩とは何の関係もないかのような陰惨な事件の数々だ。けれどこの関係性にこそ、今回の小説の主眼があるのではないか。

僕らはもはや世界中の陰惨な事件と自らの生活を切り離すことなど出来ないのだ。少しでも消費資本社会に属して生活をしているのならば(もっとも属さないということは、それに変わる経済的基盤があることでまれだ)、テロや民族紛争へ興味がなかろうが、いやおうなしに情報の洪水がそれらをリアルタイムで伝えてくる。

それは欲しい情報のみを取得するといった生易しい状況ではない。向こうから飛び込んでくるのだ。ニュース番組だけでなくあらゆるメディアが平気な顔で陰惨な世界を切り出してくれる。現在を感じるという日常的な欲求のなかへ、かなりの割合で信じられないシーンが含まれているのだ。

主人公の苦悩は自らがまいたタネによるものだった。けれど彼を囲む世の中は、彼以上の陰惨な世界をこれでもかと伝えることによって見えないうちに追い詰めてもいる。そこから生まれる二次的な苦悩は計量化されないし、評価もされない。ただなにも出来ない無力さと明日はわが身なのかといった、遠い世界をヴァーチャルに感じることだけが許されているかのように。

この小説はタイトルにあるように希望の光が芽生えたような終わり方をしている。けれど幾重にも組まれた複雑な描写が、まったく違った重みのある読後感として残る。2004-11-08/k.m


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最終更新:2009年03月18日 02:02