普段至近距離で、人混みの中を歩いている。そのストレスは以外と大きなものかもしれない。反面、なにか大きな自然に接したときの清々しさ。そこには開放感と同時にどこか恐怖感を伴わないだろうか。自分の世界観を支える社会的な基盤のなにも存在しない大地。
移動の時間的短縮によって、気持ちの移動が追いつかないことがある。それは山登りですら、自然をどこかフィクションとして受け止めさせてしまう。本当の自然とはどんなものなのか。森の奥深くにはいったいなにがあるのか。
都市と都市とを結ぶ線の途中へ、省略されるかのような山並みは、踏み鋳ることのない別世界だ。安部公房「砂の女」は、砂に埋もれた集落に閉じ込められた男の孤独なたたかいを描いていた。日常の世界からほど近い所へ存在する異世界。いったん踏み込んだら、なかなかそこから出られないもう一つの世界。
「カリスマ」の舞台である森は、「砂の女」の巨大な蟻地獄を思い起こさせる。蟻地獄の「形態」からは、とてつもない空虚なココロが浮かんでくる。連想させるものは、すべて気を滅入らすものばかりだった。
自然は、なにかの救いや、代償として消費できるような世界ではない。それを受け入れることは、全てを断ち切ることと同じなのかもしれないと思った。
人間はつねに物質的・即物的に描かれている。まるで森が有機物で、人間が無機物かのようだ。殺人のシーンですら、何かのBGVであるかのように。すべてのシーンが意識の奥へ沈んでいき、浮かんでくるのは、森の観念的な存在感ばかり。
まるで蟻地獄にはまっていたかのような時間。 ポツンと置き去りにされたエンディングにまたしても魅力を感じるのであった。
黒沢監督のすごいところは、きちんと楽しませる、決して重たいだけの映画でなく、それでいて見るものへ解釈の可能性を広げていく所でしょうか。「カリスマ」というタイトル。10年前に決めたものらしいですが、時期があまりよろしくなかったですね。2000.03.05/k.m
カテゴリー-映画
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