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カテゴライズ。

分類する事は必要だった。何かへの理解、判断を示すからだ。それらの足跡がまた分類でもあった。いま新しい世紀を向かえ、90年代をどう分類していくかが問われている。このことは90年代も事実上終わっていることを示している。分類は一つのコミュニケーションだ。相手への理解を深めるのに助けとなる。けれど人は分類されることを望まない。そこへ限界を突きつけられるからだ。ディスコミュニケーションはささやかな逃げ道となる。資本主義は、それらをも拾い集め商品化していった。もう分類されるものは残されていない。でもそのような分類自体が、薄っぺらな幻想でしかないことも、もはや誰にでも自明なことだった。人々は「やらせ」と薄っぺらな「分類」が繰り返す日常へ、やるせなさを抱きつつも、自らその援護者となっていった。

最近読んだ数冊は、そういった日常感を、対象化させよりいっそう鮮明な形で露呈させてくれた。

そういえばTVを見ていると、こいつはもういいんじゃないか!っていう人いませんか?。そんな思いが今週のTVBros.をみていたらヒットしました。決定 !TV界掃除のし残しワースト20という記事(?)は間違いなくヒットです。

蝶の皮膚の下/赤坂真理


どこまでも言語の集積体によってせき立てられる気がした。それは情報が過密なのか、描写が細かいのか、分からない。いやそれこそ現実の複雑さに比べたら小説なんて・・。機械的なディテール。化学的な表現法。言葉の単位、またそれらの連鎖の仕方(?)へ意識が向かってしょうがない。人間を描くなどという、生やさしい言い方では、もうこの物語にはついていけない。

はじめなかなか入り込めなくて、途中で読むのを辞めようかと思った。けれど、どこからか共鳴していく段階があり、最後には気になって、電車が駅に着くのを焦って読んでいた。人間の身体や脳の構造がどうなっているのか知らないが、この小説を読んでいると、それが計り知れないものなんだと感じる。

この2人の作家があの中原昌也と共に括られているのは面白い。なんのつながりも有るように思えないからだ。強いて言えば、どこからも定義づけられることを望まない事だけが共通項なのだろうか。

「インディヴィジュアル・プロジェクション」/阿部和重


ドライブ感?こういったら違うのかもしれないが、そんな印象だった。もう一つはやっぱりこれが時代性なのかと思ったこと。二つは同じ事かもしれない。

無意味さや空白感を埋めたい思いが時折襲ってくる。ハッキリと自分を導く存在に惹かれる。正しいだとかの判断を停止させるほど引っ張られたい。そんな思いを抱いている人も多いのではないか。存在の希薄さを感じるまでもなく、既に問題はもっと細かく切り刻まれている。日常の断片のさらに細かい単位でそれらは襲ってくる。大きな物語を描く妄想もない。暴力性のみがリアリティーとして魅力をもつ。

フィクションを通して日常を対象化させ、再認識させていく行為。この小説をとおして僕らもまた、「インディヴィジュアル・プロジェクション」しているのだと確認する。

サクセスの秘密/中原昌也


著者はあとがきで、「ただ人とダべっていただけだ。」と言っている。けれど僕には十分過ぎるほどのダべりだった。

2001.03.17k.m


カテゴリー-映画小説その他