インタビュー術!


  • 講談社現代新書
  • 永江朗 著
  • \700

カテゴリー-エッセイ


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対話について興味がある。以前設計という作業がすべて対話を通じて成立しているものだと言うようなメモを書いた。エスキースは自分との対話であるとか。それはコミュニケーションとも言い換えられる。頭の中だけでつくられるモノなどなく、すべて出されたモノとの対話によって生まれていくのだと思う。モノをつくる楽しみとは、そのような対話の楽しみとも言えるのではないか。

「つくる」という言葉自体にはそんなゼロからカタチへの「経過」を見落としてしまいそうな雰囲気がある。そもそも「つくる」という行為の魅力はまさに「つくっている」最中に存在する。出来上がった達成感と引き替えに、最大の楽しみも終了しているのだ。だから実際にはつくることが好きだと言いながら、本当に好きなのは対話の部分に存在しているのだ。

はじめに描き出した時、頭の中ばかりが先行してしまうのは、既に対話への期待が先走っていて、実際の作業というストイックさへのギャップから、身体が戸惑っているのではないか。確かにその状態を「頭でっかち」と言うのも、身体的に的を得ているではないか。そして動いているときほど、楽な状態はない。いかに思考回路が全快に働いていようと、身体の方が先行しだしたとたんに苦痛はなくなるのだ。

この著作を読んで一番関心してしまうのは、そんな風に走り続けている著者の健全さだ。対話が楽しみならば、それ自体が仕事に直結しているという状態がまさにフリーライター・永江朗の姿だ。インタビューとは対話以上に「つくっている」行為を感じられる作業だ。そこには対話+読みというさらなる楽しみがある。ここではその両者について十分に考察されており、どのような対話があり、どのように読まれうるかを丁寧に解説している。特に第三章の「インタビューはこう読め」には、読みという行為に含まれる楽しさを実践的に示した刺激的な部分がたくさんある。

実は建築を「つくる」こともまた「対話+読み」なのであって、その興奮する場所が案外インタビューと近いことが今回よく分かった。

2002.12.20/k.m

インタビュー術!



対話について興味がある。以前設計という作業がすべて対話を通じて成立しているものだと言うようなメモを書いた。エスキースは自分との対話であるとか。それはコミュニケーションとも言い換えられる。頭の中だけでつくられるモノなどなく、すべて出されたモノとの対話によって生まれていくのだと思う。モノをつくる楽しみとは、そのような対話の楽しみとも言えるのではないか。

「つくる」という言葉自体にはそんなゼロからカタチへの「経過」を見落としてしまいそうな雰囲気がある。そもそも「つくる」という行為の魅力はまさに「つくっている」最中に存在する。出来上がった達成感と引き替えに、最大の楽しみも終了しているのだ。だから実際にはつくることが好きだと言いながら、本当に好きなのは対話の部分に存在しているのだ。

はじめに描き出した時、頭の中ばかりが先行してしまうのは、既に対話への期待が先走っていて、実際の作業というストイックさへのギャップから、身体が戸惑っているのではないか。確かにその状態を「頭でっかち」と言うのも、身体的に的を得ているではないか。そして動いているときほど、楽な状態はない。いかに思考回路が全快に働いていようと、身体の方が先行しだしたとたんに苦痛はなくなるのだ。

この著作を読んで一番関心してしまうのは、そんな風に走り続けている著者の健全さだ。対話が楽しみならば、それ自体が仕事に直結しているという状態がまさにフリーライター・永江朗の姿だ。インタビューとは対話以上に「つくっている」行為を感じられる作業だ。そこには対話+読みというさらなる楽しみがある。ここではその両者について十分に考察されており、どのような対話があり、どのように読まれうるかを丁寧に解説している。特に第三章の「インタビューはこう読め」には、読みという行為に含まれる楽しさを実践的に示した刺激的な部分がたくさんある。

実は建築を「つくる」こともまた「対話+読み」なのであって、その興奮する場所が案外インタビューと近いことが今回よく分かった。

2002.12.20/k.m カテゴリー-エッセイ


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最終更新:2008年04月11日 08:01