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アメリカの夜


  • 阿部和重
  • 講談社文庫

この小説が僕に訴えてくるモノは意外と大きかった。

一つには自意識過剰なこの主人公にたいする感情移入だった。コンプレックスのかたまりの中から日常をいかにくぐり抜け、あたかも自分はそのようなしがらみからは自由な存在であると振る舞い、どこか涼しげな顔をして、けれどもつらいものはツライ、がむしゃらなことは素直に顔に出す、そんな人を見て、それが意外とうまくいっている光景を目の当たりにするほどに、一体自分のコンプレックスほど不毛なことなどないではないか、と不自由な存在でしかない姿を思い浮かべることも頻繁にあることを意識させられるのだった。

それが過剰に表現されるほどに、あるいはそう感じながらこの小説を読むことで、なおいっそう現実の滑稽さを認識する手助けになる、とても「実用的」な物語であること、それをオモシロク感じた。この著者がきっと主人公に近い人生を送っていて(もちろんこの手の小説が自伝的であろうと、フィクションで在ることに変わりなく、主人公と等々の人物を作者へ抱くことの強引さは、あくまで読んでいるモノの妄想にしか過ぎないとしても、そういった妄想自体が、こういった小説を支えているのではないかとも思えるので、あえてそのことへ批判的になる必要はないのかとも思っている。)その経験が、このようなリアリティーを僕へ与えてくれるのだと思う。

さらにこの作者が「映画の人」であることは、いまの僕を夢中にさせることへ拍車をかけ、しかもほぼ同年代であることや、渋谷を中心に繰り広げられる物語へ、妄想的に自己同一化を計ろうとする志向が働く結果となったことへ、僕自身驚いている。あるいはそれは、単なる時代性へ憧れるあまり、遅ればせながら発見したこの作家へ、その評価も定まっているであろうこの時期から、なおも旬であるような期待と自信を抱くことへ正直に反応せずにはいられない、無知で何にでもすぐに影響を受けやすい、自分を素直に見つめているだけなのかも知れない。

(主人公)唯夫の描写、あるいはその身体的動作を書き綴った文体は、深刻にみえるほどに滑稽だった。そこには作者の徹底したユーモアに対する戦略を感じる気がしてならない。読ませるための戦略というのか、黒沢清が自らの文学的映像を、エンターテイメントに「のせて」作品としているような、それと同等の印象を抱いてもみた。

タイトルがあのトリュフォーの作品と同じ事が気になっていた理由の一つでもあったのに、実は未だにその作品自体を見ていないことを棚に上げて、自称トリュフォーファンなどと言っているのだった。

2001.03.25k.m


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カテゴリー-小説


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