キリスト教のように絶対的存在を持たない僕らは、アイデンティティーを支える手段として他者に映し出した自身にすがるという構造を生んできた。そして現代はその構造に「痛々しいほど縛られている」と言えるのではないか。
「家族という他者」へ自身を映し出すことは希薄になりつつあると思うが、「痛々しい構造」を示す関係としてこの映画でも未だ有効に働いている。
自由という幻想を求め、家族や世間から抜け出して(ある種の)成功を勝ち取った者。(家族や世間という)しがらみの中にとどまり、生き続けることで希望を失った者。一方、抜け出すことで失った何か、生き続けたことで得られた何かを感じとってもいる。
両者は鏡のように互いを映し出すことで存在しているのにも関わらず、それぞれの人生が歴史となって息づき、交換の出来ない断絶感がつきまとう。さらに顔をあわせることで成り代われた可能性を夢想し、嫌悪もする。
成功によって勝ち取った者は、「信じることのリスク」を処世術によって身に着けたと自身へ言い聞かせ、さらに「信じ続けそこへ溺れていった」者を侮蔑しながらも、うとましく思う。一方で、「しがらみの中へ」生き続けた者は信じることの「安心感に溺れ」、またそんな自身の姿を恥じ、勝ち取った者へ「信じないという態度」で、対等に振舞おうとすらしてしまう。
両者はこのようなすれ違いを繰り返す。まるで本当の自分を見たくないかのように。その思いは記憶をゆがめ、互いの(固定化した)立場を補強すべく徐々にスライドし落ち込んでいく。
当たり前だが、映画の中で両者の内面は映像によってのみ表現されている。見ているこちら側は、映し出された映像を頼りに2人の「ゆれ」を追いかける。この関係はどこか彼らの「痛々しさ」と重なる。まるで他者を見つめ自身を「映し出す連鎖」を、ここでも僕らは繰り返すしかないのだと言われているようだ。作者の意図が力強く迫ってくる映画。2007-03-11/k.m
カテゴリー-映画