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にほんの建築家伊東豊雄・観察記


  • 著:滝口範子
  • 発行:TOTO出版
  • 定価:1,890円

デザインするのは書くことと同じです。あいまいに動き続けるものを、どこかで止めて限定するんです。

まるで決めることが残念な作業であるかのように。その止まらせ方をどのようにおもしろく出来るかがデザインの問題なのだと言っている。ふわふわと頭のなかでゆらめくイメージを定着させることがモノを生むことだと。

しかしモノになった時に、そこから再びことばが広がりはじめるのです。

モノは生まれだすことでその他の様々な可能性を切り捨てるが、次の瞬間それ自身が語り始めるといったことだろうか。限定された先にこそ広がりがある。

その作風を劇的なまでに変化させてきた建築家だけど、制度や既成概念、形式や自明性など、人間が空間と関わるときに媒体にされる「あらゆる枠」から自由でありたい。そんな思考は一貫していると思う。

むしろ抽象的・観念的なレベルで思考されていた時期よりも、より形態へ直接関わっていくことが可能になってきただけのように思える。それは人やモノの表面・「肌理」への観察眼によって生態を読み解くアフォーダンスのようでもある。科学もデザインも、向かうベクトルには同時代性があるのだろうか。

一方で、建築家をここまで生活感(仕事としての)たっぷりに描き出した著者の観察眼にも同時代性を感じた。イデオロギーのような大文字=アイコン無き時代において、建築家を描く術はこのような生活からではないか。環境を超えて形而上的な態度に出るのではなく、あくまでそこに座って思考すること。そこからはじめようとする態度。

あたかも等身大であることが認知される条件である人付き合い。何重にも演出された人間関係を触媒のようにサーチする表皮。ナイーブ過ぎることが防御であるかのような内面。なんの抽象性もなく窮屈なだけの社会。団塊より上の世代がロマンチシズムに居場所を求める中で、モノ造りをする建築家はヒョウヒョウと移動すことで自分の輪郭を確かめているようだ。

ところでモノ・本として好みな姿をしている。写真の入り方、その大きさ。文字のバランスも読みやすい。読み終わるといつも帯びは捨てちゃうのだが、これはとても色使いがキレイでなくすとバランスが悪くなってしまうそうなのでそのままにした。2006-04-11/k.m

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カテゴリー-建築