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**ポルトガル映画祭2010 &image(03.jpg,width=300) -―マノエル・ド・オリヴェイラとポルトガル映画の巨匠たち― -http://jc3.jp/portugal2010/ -2010年9月17日(金)~10月3日(日)まで、 -東京国立近代美術館フィルムセンター ---- いったい映画祭なるものへ行ってみようというのも久々だし、見終わってから大勢で歓談する段取りをしている自分もかなり久々で、そもそも映画を語り合うことが難しいのは、一人で見に来る客の多いこと、ハリウッド映画好きほど話したがる傾向が強いことからも明らかだ。 好きな映画やオススメを聞かれるほど困ることはない。一方で、好きな作品を共有したいという願望を常に抱く。この矛盾は、言葉で語ることの難しさと共に、いいよね、そうだね、では物足りないと分かっているから、あえて触れないという選択を生む。映画本が時に映画自体よりも楽しめてしまうのは、そのような欠如を埋めてくれる喜びから来ているのかも知れない。 ではどのように語り合えばよいのか考えてみる。役者や監督、脚本やプロデューサーを軸に語るのは固有の知識に差が出過ぎる。そもそも固有の知識をバックボーンとした会話には確認と不毛しか存在しない。もちろん相手との空気を読み過ぎて何にも実りない会話で終わってしまうのもつまらない。 けれど妄想をふくらませれば、会話とは出来レースみたいな様相を避けられない。自分が相手にどう見えるか、相手をどう見ているかを感じさせるか、その部分が半分以上を占めるのではないか。じゃあ映画はそっちのけか、それもつまらない。そもそも今、私は何をいいたいのだろうか。 楽しめた会話には作る側の視点で語り合うものがあった。あのシーンはどのような意図で作り、どう受け止めてほしかったか。この映画のメッセージはどこにあって、そもそもメッセージを訴えたかったのか。男性と女性の視点の差は常に興味深くそしてあからさまだった。音楽はなんであんなふうに使われていたのか。カメラアングルはどのような効果を与えていたのか。 &image(02.jpg,width=300) 『私たちの好きな八月』(ミゲル・ゴメス監督) この映画は不思議な所がたくさんあって、1回ではよく理解出来ないけれど、もう一度見たいというほど魅力的ではない。ただ、面白い場面がたくさんあった。 たとえば、劇中劇スタイルのように、前半は制作スタッフをドキュメント風に捉えるシーンが続くのだけれど、いったいこの人たちはどんな映画がとりたいのかまったく分からない。現地での役者募集ビラを見て来た女性がスタッフへ話しかけるシーン。 なぜか皆は物を投げて何かへ当てる(最後まで対象は写されない)ようなゲームの最中。キャスティング担当は誰かと話しかける女性をタライ回し。やっとめぐった監督からはゲームの最中で忙しいと退けられる。これらを全て望遠で捉えているので、遠近感は消され、ウロウロする女性が実際以上に動いてないように見える。スタッフのグズグズ感とあいまってものすごくユルい茶番のようだ。 このユルさは最後まであって、本篇のドラマが一応終わり、クレジットへ行く手前、またスタッフ・ドキュメント風に戻る。森で虫の音を捉える音効さんへしきりにクレームを出す監督。不可解な歌声が録音されているという。音効さんははじめ抵抗ぎみだが、そのうちに聞こえないやつには聞こえないし、そんなことはつまらないといった、何やら哲学問答のような様相にいたり、スパッツと終わってしまう。 そもそも配役に至るまでも周到に描かれていた。主人公二人の普段の仕事ぶり、起用され何気なく会話をし始める男女の姿。その間も常にライブフェス風景が重ねられ、気づくと主人公たちは同じバンドのメンバーとして歌っていた。演じることの境界があいまいにされ、演じる前の姿も充分演出的であったり、すべて画面の中はフィクションであり、同時にリアルなんだと言っているようでもある。 &image(01.jpg,width=300) 『トランス』(テレーザ・ヴィラヴェルデ監督) どこまでいっても救いのない映画で、見ているのが辛く痛々しい場面ばかりが続き、いったいこの後の「歓談」はどうなってしまうのだろう、皆を呼び集めた自分はこの責任をどう取ればよいのだろう、そもそも映画の解説では耽美的とか幻想的とか謳われていたけれど、これでは「だまし打ち」ではないか、まぁ自分がこれを配給しろと言われればあるいはこのように「だまそう」と思ったかも知れない、けれど不意に訪れたこの作品はまるで事故に会ったようなものではないか。などど考えている間に終わってしまった。 もちろんこれを貧困が生む歪んだ社会の縮図とも見れるし、女性自身が描く内面のない男たちによって作られた生き地獄のようにも見れる。あるいは男の動物的な性衝動が国境を越えて自由な経済活動のように繋がり合うことがEUなのかなんて、とにかく受け止め方に迷いを生む。 雪が降る、ハイウェイを走る、スローモーションは常に何か起りそうな予感を与える。それが単なる場面転換であっても、時間的な隔たりを与える。けれどこの映画ではいつまでも救いがないせいか、スローモーションによって閉じ込められる気分を増発させられる。幻想的な演出もデビットリンチ的な期待感を与えるけれど、同様だった。思えばカメラアングルにも閉塞感を与える構図が多い。主人公がどこへ連れて行かれているのか説明もなく、行く先々で登場する男を含め顔のアップばかりで空間性は希薄となり息は詰まるばかり。 この生き地獄から抜け出したい、そのように見る側を追い詰めることが狙いならば、あるいは成功した映画か。○○へ捧ぐ、、というテロップは、まるで不幸の手紙のように感じたけれど。
**ポルトガル映画祭2010 &image(03.jpg,width=300) -―マノエル・ド・オリヴェイラとポルトガル映画の巨匠たち― -http://jc3.jp/portugal2010/ -2010年9月17日(金)~10月3日(日)まで、 -東京国立近代美術館フィルムセンター ---- いったい映画祭なるものへ行ってみようというのも久々だし、見終わってから大勢で歓談する段取りをしている自分もかなり久々で、そもそも映画を語り合うことが難しいのは、一人で見に来る客の多いこと、ハリウッド映画好きほど話したがる傾向が強いことからも明らかだ。 好きな映画やオススメを聞かれるほど困ることはない。一方で、好きな作品を共有したいという願望を常に抱く。この矛盾は、言葉で語ることの難しさと共に、いいよね、そうだね、では物足りないと分かっているから、あえて触れないという選択を生む。映画本が時に映画自体よりも楽しめてしまうのは、そのような欠如を埋めてくれる喜びから来ているのかも知れない。 ではどのように語り合えばよいのか考えてみる。役者や監督、脚本やプロデューサーを軸に語るのは固有の知識に差が出過ぎる。そもそも固有の知識をバックボーンとした会話には確認と不毛しか存在しない。もちろん相手との空気を読み過ぎて何にも実りない会話で終わってしまうのもつまらない。 けれど妄想をふくらませれば、会話とは出来レースみたいな様相を避けられない。自分が相手にどう見えるか、相手をどう見ているかを感じさせるか、その部分が半分以上を占めるのではないか。じゃあ映画はそっちのけか、それもつまらない。そもそも今、私は何をいいたいのだろうか。 楽しめた会話には作る側の視点で語り合うものがあった。あのシーンはどのような意図で作り、どう受け止めてほしかったか。この映画のメッセージはどこにあって、そもそもメッセージを訴えたかったのか。男性と女性の視点の差は常に興味深くそしてあからさまだった。音楽はなんであんなふうに使われていたのか。カメラアングルはどのような効果を与えていたのか。 &image(02.jpg,width=300) 『私たちの好きな八月』(ミゲル・ゴメス監督) この映画は不思議な所がたくさんあって、1回ではよく理解出来ないけれど、もう一度見たいというほど魅力的ではない。ただ、面白い場面がたくさんあった。 たとえば、劇中劇スタイルのように、前半は制作スタッフをドキュメント風に捉えるシーンが続くのだけれど、いったいこの人たちはどんな映画がとりたいのかまったく分からない。現地での役者募集ビラを見て来た女性がスタッフへ話しかけるシーン。 なぜか皆は物を投げて何かへ当てる(最後まで対象は写されない)ようなゲームの最中。キャスティング担当は誰かと話しかける女性をタライ回し。やっとめぐった監督からはゲームの最中で忙しいと退けられる。これらを全て望遠で捉えているので、遠近感は消され、ウロウロする女性が実際以上に動いてないように見える。スタッフのグズグズ感とあいまってものすごくユルい茶番のようだ。 このユルさは最後まであって、本篇のドラマが一応終わり、クレジットへ行く手前、またスタッフ・ドキュメント風に戻る。森で虫の音を捉える音効さんへしきりにクレームを出す監督。不可解な歌声が録音されているという。音効さんははじめ抵抗ぎみだが、そのうちに聞こえないやつには聞こえないし、そんなことはつまらないといった、何やら哲学問答のような様相にいたり、スパッツと終わってしまう。 そもそも配役に至るまでも周到に描かれていた。主人公二人の普段の仕事ぶり、起用され何気なく会話をし始める男女の姿。その間も常にライブフェス風景が重ねられ、気づくと主人公たちは同じバンドのメンバーとして歌っていた。演じることの境界があいまいにされ、演じる前の姿も充分演出的であったり、すべて画面の中はフィクションであり、同時にリアルなんだと言っているようでもある。 &image(01.jpg,width=300) 『トランス』(テレーザ・ヴィラヴェルデ監督) どこまでいっても救いのない映画で、見ているのが辛く痛々しい場面ばかりが続き、いったいこの後の「歓談」はどうなってしまうのだろう、皆を呼び集めた自分はこの責任をどう取ればよいのだろう、そもそも映画の解説では耽美的とか幻想的とか謳われていたけれど、これでは「だまし打ち」ではないか、まぁ自分がこれを配給しろと言われればあるいはこのように「だまそう」と思ったかも知れない、けれど不意に訪れたこの作品はまるで事故に会ったようなものではないか。などど考えている間に終わってしまった。 もちろんこれを貧困が生む歪んだ社会の縮図とも見れるし、女性自身が描く内面のない男たちによって作られた生き地獄のようにも見れる。あるいは男の動物的な性衝動が国境を越えて自由な経済活動のように繋がり合うことがEUなのかなんて、とにかく受け止め方に迷いを生む。 雪が降る、ハイウェイを走る、スローモーションは常に何か起りそうな予感を与える。それが単なる場面転換であっても、時間的な隔たりを与える。けれどこの映画ではいつまでも救いがないせいか、スローモーションによって閉じ込められる気分を増発させられる。幻想的な演出もデビットリンチ的な期待感を与えるけれど、同様だった。思えばカメラアングルにも閉塞感を与える構図が多い。主人公がどこへ連れて行かれているのか説明もなく、行く先々で登場する男を含め顔のアップばかりで空間性は希薄となり息は詰まるばかり。 この生き地獄から抜け出したい、そのように見る側を追い詰めることが狙いならば、あるいは成功した映画か。○○へ捧ぐ、、というテロップは、まるで不幸の手紙のように感じたけれど。2010-10-02/k.m ---- カテゴリー-[[映画]]

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