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**さようなら、ギャングたち &amazon(4061975625) -講談社文芸文庫 -[[高橋源一郎]]〔著〕 -\1,100 -1997.4 ---- 作家の文体が独創的な場合、それを評価するにも独創的でなければうまくいかない。特にこの作品を高く評価する言葉は興味をそそる。戸惑いを生む読後感、長編というつながり、笑えたり、感心したり、退屈だったり、哲学だったり。様々に振る舞う姿は、まるでなにかから逃げ回るかのようだ。ただそれに開放感を覚えるほどの抑圧を共有しているはずもなく、それは作り手にも言えることだろうか。 阿修羅ガールが3部構成になっていて、この作品とちょっと重なって見えるのは、それが同じように戸惑うからばかりではない。そして同じように高く評価する言葉が興味深く飛び交う、それもネット上で激しく見かけるのも、文学が次のステージを求めているからだろうか。時代性にあった何かが文学に求められるだけではきっとこんなに評価は高くないのだろう。同時代的であるという理解の先にあるかのような、不可解さを匂わせてくれる何かを求めているのではないか。 20年以上前の作品で、いま読んでもこのような戸惑いを受け、それ自体に理解への脅迫感をも与えてしまうのは、やはり問題作なのかもしれない。アレゴリーがどのように機能しているのかをこの作品を使って教わりたいモノだ。しかしそれも一つの解釈であって、押しつけではない。 ギャングという言葉に見せかけの文脈が与えられ、それが哀しかったり滑稽だったりする。むしろパロディーとして軽いことが、そのような自在さを生んでいるようで面白い。開放感とは、こうあるべきだという思いこみを気づかせることではなく、思いこみを好意的な幻想としてパッケージし、それを使って笑わせたり哀しませたりすることではないか。意味を脱色するのではなく、脱色するという行為自体を笑っているような感じだ。2003-06-28/k.m ***コメント -[[k.m]]>[[zzz]]さんによるボリス・ヴィアンとの比較[[●:http://www.textilecocoon.net/movabletype/archives/2003/06/01/takahashigennitirou_sayounaragangtati.html#000113]]SIZE(10){2003-07-04 (金) 01:54:26} -[[zzz]]>学生の頃、これを読んで泣ける奴は文学をわかる奴だとうそぶく先輩がいました。泣けるかどうかは微妙なところだけど、ポストモダンというものの喪失感が色濃くにじんだ傑作だと思います。しかし早いなあ。もう20年も経ったのか。ラストで少年たちは「もっとナイスなもの」の方へ歩み去ったけれど、ぼくらはこの作品の後、果たしてナイスなものに出会えたんだろうか?SIZE(10){2003-07-04 (金) 02:01:55} -[[blau]]>確かにこの「ナイスなもの」って、なんなんだろうか。今読んでもまったく古びていなくて、「時代」を取り去っても残る作品と思えるのに、「時代」と密に結びついているところが、とても興味深いです。SIZE(10){2003-07-06 (日) 22:47:32} -[[zzz]]>k.m. さんの言うように小説だと思って読むと肩透かしを喰う感じですね。むしろ現代詩に近いかも。自サイトでは書きませんでしたが、これも名付けに特色のある小説だと思います。通常の物語なら生まれたときに名付けられて、通過儀礼を通じて新しい名前を手に入れたり(たとえば元服)、成長物語を通じて盛名を轟かせたりする。ところが「さようなら、ギャングたち」や「緑の小指ちゃん(キャラウェイの愛称)」という奇妙な名前は、決して名前の持ち主を物語に出会わせることなく、名前が含意する予言の通りに殺してしまう。ここにこの小説のポストモダン的喪失感の源泉があるんでしょうね。また blau さんの言うように「「時代」を取り去っても残る作品と思えるのに、「時代」と密に結びついている」感じもする、というのは自分も同意するところで、それはこの作品のあと「時代」という全体的な観念の有効性が次第に失われてしまった、その先の現代から振り返って見ていることも関係あると思います。いま「ナイスなもの」がどう可能かについては多々思うところがあるのですが、ぼくは高橋源一郎さんには引き続き期待を寄せています。SIZE(10){2003-07-09 (水) 19:20:35} -[[k.m]]>なるほど。確かに僕も時代性ということを気にしていますが、今ひとつそれと結びつくものが見出しにくいのは、'''「時代」という全体的な観念の有効性が次第に失われてしまった・・・'''と見ることが出来るのですね。もはや時代性という括り自体に、意味がなくなってしまった・・。もともとそれは、思考の簡明さを出すための手段でもあって、複雑さはそれを超えて進んでしまっている・・。のでしょうか。だとすれば複雑さに対抗する思考または身体とは?・・・。SIZE(10){2003-07-09 (水) 22:34:29} -[[zzz]]>時代という言葉はこれからも残るでしょうが、誰もに共有されているような「大きな物語」が機能しなくなったことは強く感じます。'''複雑さに対抗する思考または身体とは?''' うーん、難しい。個人的には、様々な分野を渡る「横断」と一つの分野を極める「登攀」、その二つの運動をこなす過程での「スピード」といった、三つの指標を念頭に置いています。まあそうは言っても、いまだに自分は感触をつかみきれずにいるんですが^^;SIZE(10){2003-07-11 (金) 21:31:46} -[[k.m]]>「横断」と「登攀」、「スピード」ですね。建築を考える上でもこの3つのバランスはとても重要だと思います。こうやって見ると、どれも満足いってないなーと痛感します。思考そのものを楽しむ上でも重要で、はきだしていく実践がともなわないと成立しないバランスですかねー。SIZE(10){2003-07-17 (木) 21:12:41} ---- カテゴリー-[[小説]]
**さようなら、ギャングたち &amazon(4061975625) -講談社文芸文庫 -[[高橋源一郎]]〔著〕 -\1,100 -1997.4 ---- 作家の文体が独創的な場合、それを評価するにも独創的でなければうまくいかない。特にこの作品を高く評価する言葉は興味をそそる。戸惑いを生む読後感、長編というつながり、笑えたり、感心したり、退屈だったり、哲学だったり。様々に振る舞う姿は、まるでなにかから逃げ回るかのようだ。ただそれに開放感を覚えるほどの抑圧を共有しているはずもなく、それは作り手にも言えることだろうか。 阿修羅ガールが3部構成になっていて、この作品とちょっと重なって見えるのは、それが同じように戸惑うからばかりではない。そして同じように高く評価する言葉が興味深く飛び交う、それもネット上で激しく見かけるのも、文学が次のステージを求めているからだろうか。時代性にあった何かが文学に求められるだけではきっとこんなに評価は高くないのだろう。同時代的であるという理解の先にあるかのような、不可解さを匂わせてくれる何かを求めているのではないか。 20年以上前の作品で、いま読んでもこのような戸惑いを受け、それ自体に理解への脅迫感をも与えてしまうのは、やはり問題作なのかもしれない。アレゴリーがどのように機能しているのかをこの作品を使って教わりたいモノだ。しかしそれも一つの解釈であって、押しつけではない。 ギャングという言葉に見せかけの文脈が与えられ、それが哀しかったり滑稽だったりする。むしろパロディーとして軽いことが、そのような自在さを生んでいるようで面白い。開放感とは、こうあるべきだという思いこみを気づかせることではなく、思いこみを好意的な幻想としてパッケージし、それを使って笑わせたり哀しませたりすることではないか。意味を脱色するのではなく、脱色するという行為自体を笑っているような感じだ。2003-06-28/k.m ***コメント -[[k.m]]>[[zzz]]さんによるボリス・ヴィアンとの比較[[●>http://www.textilecocoon.net/movabletype/archives/2003/06/01/takahashigennitirou_sayounaragangtati.html#000113]]SIZE(10){2003-07-04 (金) 01:54:26} -[[zzz]]>学生の頃、これを読んで泣ける奴は文学をわかる奴だとうそぶく先輩がいました。泣けるかどうかは微妙なところだけど、ポストモダンというものの喪失感が色濃くにじんだ傑作だと思います。しかし早いなあ。もう20年も経ったのか。ラストで少年たちは「もっとナイスなもの」の方へ歩み去ったけれど、ぼくらはこの作品の後、果たしてナイスなものに出会えたんだろうか?SIZE(10){2003-07-04 (金) 02:01:55} -[[blau]]>確かにこの「ナイスなもの」って、なんなんだろうか。今読んでもまったく古びていなくて、「時代」を取り去っても残る作品と思えるのに、「時代」と密に結びついているところが、とても興味深いです。SIZE(10){2003-07-06 (日) 22:47:32} -[[zzz]]>k.m. さんの言うように小説だと思って読むと肩透かしを喰う感じですね。むしろ現代詩に近いかも。自サイトでは書きませんでしたが、これも名付けに特色のある小説だと思います。通常の物語なら生まれたときに名付けられて、通過儀礼を通じて新しい名前を手に入れたり(たとえば元服)、成長物語を通じて盛名を轟かせたりする。ところが「さようなら、ギャングたち」や「緑の小指ちゃん(キャラウェイの愛称)」という奇妙な名前は、決して名前の持ち主を物語に出会わせることなく、名前が含意する予言の通りに殺してしまう。ここにこの小説のポストモダン的喪失感の源泉があるんでしょうね。また blau さんの言うように「「時代」を取り去っても残る作品と思えるのに、「時代」と密に結びついている」感じもする、というのは自分も同意するところで、それはこの作品のあと「時代」という全体的な観念の有効性が次第に失われてしまった、その先の現代から振り返って見ていることも関係あると思います。いま「ナイスなもの」がどう可能かについては多々思うところがあるのですが、ぼくは高橋源一郎さんには引き続き期待を寄せています。SIZE(10){2003-07-09 (水) 19:20:35} -[[k.m]]>なるほど。確かに僕も時代性ということを気にしていますが、今ひとつそれと結びつくものが見出しにくいのは、'''「時代」という全体的な観念の有効性が次第に失われてしまった・・・'''と見ることが出来るのですね。もはや時代性という括り自体に、意味がなくなってしまった・・。もともとそれは、思考の簡明さを出すための手段でもあって、複雑さはそれを超えて進んでしまっている・・。のでしょうか。だとすれば複雑さに対抗する思考または身体とは?・・・。SIZE(10){2003-07-09 (水) 22:34:29} -[[zzz]]>時代という言葉はこれからも残るでしょうが、誰もに共有されているような「大きな物語」が機能しなくなったことは強く感じます。'''複雑さに対抗する思考または身体とは?''' うーん、難しい。個人的には、様々な分野を渡る「横断」と一つの分野を極める「登攀」、その二つの運動をこなす過程での「スピード」といった、三つの指標を念頭に置いています。まあそうは言っても、いまだに自分は感触をつかみきれずにいるんですが^^;SIZE(10){2003-07-11 (金) 21:31:46} -[[k.m]]>「横断」と「登攀」、「スピード」ですね。建築を考える上でもこの3つのバランスはとても重要だと思います。こうやって見ると、どれも満足いってないなーと痛感します。思考そのものを楽しむ上でも重要で、はきだしていく実践がともなわないと成立しないバランスですかねー。SIZE(10){2003-07-17 (木) 21:12:41} ---- カテゴリー-[[小説]]

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