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**鬼が来た! #amazon(B00006RTUV) #image(http://adolf45d.client.jp/1.jpg) -2000中国/東光徳間 -監督・製作・脚本・出演:[[チアン・ウェン]] -原作:ユウ・フェンウェイ -撮影:クー・チャンウエイ -音楽:ツイ・チエン/リウ・シン/リー・ハイイン -出演:[[香川照之]]/チアン・ホンポー/ユエン・ティン/チェン・シュ/ツォン・チーチュン/澤田謙也 -カンヌ映画祭でグランプリに輝いた力作。 ---- カテゴリー-[[映画]] ---- 140分という長い映画も最近では珍しくなくなってきた。けれどこの時間楽しませるのも難しいと思う。戦争を描くというと様々な記憶や歴史観とともに普遍的な姿勢をとらざるを得ないような息苦しさも感じる。しかしこの映画には戦時中という戦いの構図よりも、人間性の激しいぶつかり合いの方が印象強く、それは戦闘シーンよりも断然迫力のあるものとして迫って来た。 第二次世界大戦末期、日本占領下の中国華北地方。戦いのない日本軍は毎日のように村を行進して周り、そのささやかな権力を行使することが日常となっていた。その寒村に住む青年マー(監督・主演!)のもとに「私」としか名乗らない男がやってきて麻袋を2つ置いていくことでこの奇怪な話は始まる。この「私」はかつての中国共産党軍、「八路軍」を描いている。これがもとで未だ国内での上映が禁止されているようだ。 劇中では、お互い「命がけ」のコミュニケーションを繰り広げつつ、自己防衛すべく通訳の機転によって、コミカルなやり取りに変換されるシーンが印象深い。香川照之の汗を浮かべ必死に愚劣を装った「新年の挨拶」にもマンガ的な面白さを感じる。そして同時に「背後で拳銃をもって笑っているような」惨劇の前兆をも感じる、冷や汗をかきながら笑う居心地の悪さがある。それは繰り返される海軍の「軍艦マーチ」にもフィードバックされる、パチンコ屋を思わせる「まがい物」的おかしさと、逆らうと殺されるかも知れないという、中国人の微笑む姿に同居する感覚だ。 日本兵・花屋と村人・マーの関係は様々に変わっていく。捕らわれそれでもその尊厳のために「殺せ」と叫ぶ花屋と生かさねば自分の命が無くなると必死なマー。やがて「私」があらわれず2人を殺せと話し合う村人、立場は変わって命乞いする花屋。その後2者が結んだ契約が元で引き起こされる大惨劇・・。何度も入れ替わる2者の立場。命がけの必死な姿と、それゆえの滑稽さ。この二つの感情は狂気のように背筋を襲う恐ろしさを持ち、最高潮に高められたテンションの持続に観客すらも巻き込んでいく。 日本兵・香川照之が中国人を罵倒する姿には確かに「狂気」じみた恐ろしさを感じる。この状態の人間が起こしてきた惨劇が計り知れない犠牲と不条理を産みだしてきたのだろうとも思う。しかし同時にそれらは、むしろ「卑称」ですらあって、余りに短絡的な思考から起こしている行動にも見える。計画性も冷静さも欠け、ただ衝動的にわめき散らしている様にも見える。その姿はマンガ的ですらある。 「ここ」へ、様々に語られ、様々な記憶の中で錯綜してきた日本の「侵略戦争」の姿を見るような気がした。今の教育がつくってきた「中途半端」な戦争批判によって、よく分からないままに自らの「ルーツ」を否定的なものととらえ、依然として不甲斐ない外交政策しか取ることの出来ない政治をながめつつ、僕らはこの映画ですら、「ダメな日本人」という門切り型の自己批判で思考停止を繰り返すだけの姿を「あざ笑っている」諸外国人達のイメージを浮かび上がらせながら見ていくのだろうか・・・。 そしてすべての前兆は終盤のために用意されたかのように、それでいて全く予想出来なかったほどの「凄まじさ」をもって、次々と鳥肌の立つような悲劇が繰り広げられていった。2002.05.03k.m ---- ***コメントをぜひ #comment
**鬼が来た! #amazon(B00006RTUV) #image(http://adolf45d.client.jp/eigaoni.jpg) -2000中国/東光徳間 -監督・製作・脚本・出演:[[チアン・ウェン]] -原作:ユウ・フェンウェイ -撮影:クー・チャンウエイ -音楽:ツイ・チエン/リウ・シン/リー・ハイイン -出演:[[香川照之]]/チアン・ホンポー/ユエン・ティン/チェン・シュ/ツォン・チーチュン/澤田謙也 -カンヌ映画祭でグランプリに輝いた力作。 ---- カテゴリー-[[映画]] ---- 140分という長い映画も最近では珍しくなくなってきた。けれどこの時間楽しませるのも難しいと思う。戦争を描くというと様々な記憶や歴史観とともに普遍的な姿勢をとらざるを得ないような息苦しさも感じる。しかしこの映画には戦時中という戦いの構図よりも、人間性の激しいぶつかり合いの方が印象強く、それは戦闘シーンよりも断然迫力のあるものとして迫って来た。 第二次世界大戦末期、日本占領下の中国華北地方。戦いのない日本軍は毎日のように村を行進して周り、そのささやかな権力を行使することが日常となっていた。その寒村に住む青年マー(監督・主演!)のもとに「私」としか名乗らない男がやってきて麻袋を2つ置いていくことでこの奇怪な話は始まる。この「私」はかつての中国共産党軍、「八路軍」を描いている。これがもとで未だ国内での上映が禁止されているようだ。 劇中では、お互い「命がけ」のコミュニケーションを繰り広げつつ、自己防衛すべく通訳の機転によって、コミカルなやり取りに変換されるシーンが印象深い。香川照之の汗を浮かべ必死に愚劣を装った「新年の挨拶」にもマンガ的な面白さを感じる。そして同時に「背後で拳銃をもって笑っているような」惨劇の前兆をも感じる、冷や汗をかきながら笑う居心地の悪さがある。それは繰り返される海軍の「軍艦マーチ」にもフィードバックされる、パチンコ屋を思わせる「まがい物」的おかしさと、逆らうと殺されるかも知れないという、中国人の微笑む姿に同居する感覚だ。 日本兵・花屋と村人・マーの関係は様々に変わっていく。捕らわれそれでもその尊厳のために「殺せ」と叫ぶ花屋と生かさねば自分の命が無くなると必死なマー。やがて「私」があらわれず2人を殺せと話し合う村人、立場は変わって命乞いする花屋。その後2者が結んだ契約が元で引き起こされる大惨劇・・。何度も入れ替わる2者の立場。命がけの必死な姿と、それゆえの滑稽さ。この二つの感情は狂気のように背筋を襲う恐ろしさを持ち、最高潮に高められたテンションの持続に観客すらも巻き込んでいく。 日本兵・香川照之が中国人を罵倒する姿には確かに「狂気」じみた恐ろしさを感じる。この状態の人間が起こしてきた惨劇が計り知れない犠牲と不条理を産みだしてきたのだろうとも思う。しかし同時にそれらは、むしろ「卑称」ですらあって、余りに短絡的な思考から起こしている行動にも見える。計画性も冷静さも欠け、ただ衝動的にわめき散らしている様にも見える。その姿はマンガ的ですらある。 「ここ」へ、様々に語られ、様々な記憶の中で錯綜してきた日本の「侵略戦争」の姿を見るような気がした。今の教育がつくってきた「中途半端」な戦争批判によって、よく分からないままに自らの「ルーツ」を否定的なものととらえ、依然として不甲斐ない外交政策しか取ることの出来ない政治をながめつつ、僕らはこの映画ですら、「ダメな日本人」という門切り型の自己批判で思考停止を繰り返すだけの姿を「あざ笑っている」諸外国人達のイメージを浮かび上がらせながら見ていくのだろうか・・・。 そしてすべての前兆は終盤のために用意されたかのように、それでいて全く予想出来なかったほどの「凄まじさ」をもって、次々と鳥肌の立つような悲劇が繰り広げられていった。2002.05.03k.m ---- ***コメントをぜひ #comment

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