エピローグ



駅までの長い一本道を彼女と肩を並べて歩く。辺りはすっかり暗くなり、
帰宅する人影もまばらで、どことなく寂しい雰囲気が漂う。
でも、僕の心の中は温かい気持ちで満たされていた。
さっきここを通って彼女の家まで向かっていた時とは、全く別の感情で溢れている。
何はともあれ、取り返しのつかない出来事で打ちのめされた彼女は、
今はすっかり立ち直ったようで、いつものように無言だが姿勢良く道を歩く。
僕としても、明日からまたいつも通りの日々が始まると思うと、嬉しくて仕方がない。
高校に入学してからの僕の日常は、いつの間にか「放課後に彼女の研究所に行くこと」になっていたようだ。
でもそんな生活に不服など一片もありはしない。
今の僕にはそっちの方が充実している。
しかし、明日からと思いすっかり忘れていた期末テストのことを思い出した。
一気に意気消沈すると共に、焦燥感が胸をよぎる。
いくら彼女との研究が楽しいからと言って、こればっかりは疎かに出来ない。
そういえば、塾を休んでしまったことも思い出し、今日は徹夜だと覚悟した。

「あの、ちょっといいかな?」
申し訳ない気持ちを込め、彼女に声を掛けると、「はい?」と顔をこっちに向けず短い返事だけ返した。
「実は明後日から期末テストが始まるから、研究の再開はテストが終わった後でいいかな?」
恐る恐る伺いをたてると、しばしの沈黙のあとに、「了解しました」と、これまた短く返答がきた。
「では私も明後日からは学生らしく慇懃と登校することにします」
「はぁ。その方がいいよ。ところでテストは大丈夫なの?」
「問題ないと思われます」
即答だった。でも彼女が勉強をしているところは一度も見たことがない。
学校では机にかじりつき、ノートに研究に必要な構築式を書き殴っているし、家に帰っても実験に没頭する姿しか記憶にない。
まぁでも、彼女自身が大丈夫というならば、大丈夫なのだろう。
そんなことを考えていたら、不意になことを彼女が口を開いた。
「今日は来て頂きありがとうございました。もしもあなたが来なかったら私は最悪の選択をしていたかも知れません」
僕は、何て返事をしたらいいのか迷った。

彼女が僕に感謝するなんて何だかこそばゆいし、彼女がいう最悪の選択というのに、胸がつまった。
実際にそうなっていたかも知れないと思うと、ゾッとするし何とも言えない気持ちになる。
隣にいる彼女を見ていると、とても想像なんて出来ない。
「それにあなたがいたから研究を再開しようという気持ちになれましたし。あなたが…」
何故かそこで一旦言葉を区切り、彼女は遠くを見つめ何やら思案する顔になった。
僕はどうしたのかと訝しげていると、彼女は頭一つ大きい僕の方を見上げ感情が一切こもっていないような声で続けた。
「そういえば私はあなたの名前を知りません」
まさに呆気に取られるというのは、このことだ。
僕は半分苦笑い、半分驚きという器用な顔を作り、彼女に突っ込んだ。
「いや、だって入学した時は隣の席だったじゃん?しかもほぼ毎日顔を合わせていた仲だったのに?…うそでしょ…?」
「あなたという個体の識別には問題がなかったので」
彼女の力強い瞳は、今は僅かな探求心で輝いている。
その宝石のような眼差しに、僕は苦笑いで答えるしかなかった。
たぶん今日一番の、いや彼女と出会ってから今までで一番の驚愕だ。


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最終更新:2008年03月04日 14:07