七 章


夏の残暑が完全に木枯らしに変わり、中間テストを終えて既にクラスの大半は期末テストに向けて勉強を進めていた。
彼女から研究の終わりを告げられた日から、1ヶ月が経とうとした。
少し休むと言ったはずの彼女は、未だに学校に顔を出さない。
よっぽど研究所の片付けが取り込んでいるのか、はたまた学会や団体に引っ張りだこにされているのだろうか。
しかし今の僕には知る由もない。あれから一度も彼女には会っていない。
実際のところ、あまりに学校に来ないので心配になり、何度か研究所に行こうかなと思ったが、なんとなく行きづらかった。
それよりも僕自身、かなり忙しい毎日を過ごしていた。
予想はしていたが、中間テストの成績をだいぶ落とした。
今まで見たことのない数字が答案用紙の端で僕を嘲笑っていた。
全ての採点済み答案用紙が戻ってきたとき、僕は焦燥感と屈辱感に駆られ急いで学習塾に申し込んだ。
それからは毎日寝る間も惜しんで、勉学に励んだ。
朝は早めに登校してその日の授業の予習。放課後は学習塾に通い、夜は遅くまでその日の復習。
高校受験の時でもこれほど机には向かわなかった、というくらいに必死に勉強をした。
幸い机にかじりつく習慣は体から抜けていなかったから、そんなに勉強をするのは苦にならなかった。
でも全然楽しくなかった。

忙しい毎日ではあったが、その中でも必ず一度は彼女のことを考えた。
今、何をしているだろうか?
ゆっくりと過ごしているだろうか?
きちんとご飯は食べているだろうか?
論文はどうなったのだろうか?
きちんと学会や団体は取り上げてくれただろうか?
一人で寂しくないのだろうか?
今、何を考え何を思っているのだろうか?

僕は彼女に会いたかった。
でも会いに行けなかった。
勇気がない意気地なしな自分を罵った。
そんなことを思い、少し落ち込んだ後、僕はまた机の問題集に取り組んだ。

季節は止まることなくまた過ぎ冬に入る前の大きな砦、二学期の期末テストが目前に迫っていた。
僕が通う学校は期末テスト期間に限り、テスト前には3日間学校は丸一日休みになる。
学生達はこの3日間で詰め込めるだけ詰め込める。僕もこの3日間は朝早くからずっと部屋にこもって勉強をするつもりだ。
1日目はそれこそ一日中部屋に閉じこもり、 食事以外はずっと問題集とにらめっこしていた。
そして二日目。この日は午後から塾に行く予定だったので、昼食のあとにリビングでくつろいでいた。
昨日は夜の3時まで勉強をしていたので少し骨休めである。
僕はぼんやりとテレビを眺めながら、一学期はテスト休みの時も彼女の家で実験をしてたっけ、とまた彼女のことを考えていた。
テレビではとある国家間での紛争の特集を放送していた。
原因は詳しくわからないが最初は小さい国同士の宗教思想の違いに大国が軍事参入した結果、
大規模で長期間の醜い紛争になってしまったらしい。
日本からも前線ではないものの、自衛隊が派遣されているところをみると、実に苦々しい気持ちになる。
僕はテレビ画面を眺めながら頭の中では別の事を考えていたが、ニュースキャスターの言葉で時が止まった。

『皆さんは現在この紛争でヨーグルトという兵器が投入されているのをご存知でしょうか?』
ヨーグルト?兵器?僕は一瞬で頭の中が真っ白になり、画面に映されたニュースキャスターに釘付けになった。
『なかなか変わった名前の兵器ですが、皆さんが朝食で食べるヨーグルトというわけではありません。
詳細は全く伝えられてませんが、植物や食品の発酵作用を利用した小型爆弾のようです。』
僕は途中までみた後、急いで外に飛び出した。息が切れるのも気にする余裕がなく、駅に向かい電車に飛び乗った。
平日の昼下がり。座席はかなり空いていたが、僕は腰を掛けずに手すりに掴まった。
心臓の鼓動の音が早く、うるさい。息が上がって喉が乾く。意味もなく耳鳴りが響き渡る。
さっきのニュースキャスターが言ってたことが頭の中でグルグル回っていた。
『百年近く昔に日本の広島と長崎に投下された原子爆弾を覚えてますでしょうか?
放射能などの後遺症は今のところ観測されてはいないものの、匹敵するほどの破壊力を持つというのが
ヨーグルトという兵器なのだそうです。
更にその特長は火薬を用いず低コストで高威力を発揮する量産性が高い爆弾ということです。なお、この小型爆弾を前線に投入したアメリカ軍は形勢を一気に有利に進め、専門家によると紛争は沈静化に傾いていくだろうとのことです。』
僕は目を固くつむり、何に祈ったらいいのかわからないけど、とにかく強く祈った。
そして一度も呼んだことのない彼女の名前を何度も心の中で叫んだ。
『そしてこれもまた不確定な情報ですが、
このヨーグルトと呼ばれる小型爆弾が開発されたのは、なんと我が国、日本かも知れないとの噂が囁かれています。
もしも本当のことならば非常に許すことの出来ない事実ではないでしょうか?
なお現在まで確認出来ています犠牲者の数は…』

彼女の家の鍵は開いていた。
僕は駅からここまでの長い道のりを走り続けたため、ほとんどなだれ込むようにドアを開けた。
肩で荒く息をつきながら室内を見回すと、彼女がこちらに背中を向けて立っていた。
僕は彼女に話し掛けるため呼吸を整えようとしたが、運動不足な体はそう簡単に回復してはくれない。
随分前から稼働を止めた実験道具。
闖入者があったのに微動だにせず、振り向こうともしない彼女。
静まり返った研究所は、しばらく僕の情けない呼吸音が支配した。
どのくらいの時間が経ったのだろう。僕の心肺機能も正常に戻りかけ、額から流れていた汗も引きかけてきた頃、
彼女はそのままの姿勢でいつもの抑揚のない声で僕に語りかけてきた。

「あなたも報道番組をご覧になったのですね。
あれで紹介されていた小型爆弾は我々が研究した『ヨーグルト』を元に開発されたとみて相違ないでしょう。
どうやら実用段階では合格点なようです。」
彼女は僕に話し掛けいるはずなのに、こっちを見ようともせず、淡々と話を進める。
「もともと科学の進歩に犠牲は望まぬとも生じるものです。
今回のヨーグルトの実用実験は戦争の道具として利用されましたが
原子力とて同様の事例を経て現在に至るわけですから問題はありません」
僕は彼女の言葉を受け入れるごとに、悲しさが胸の奥から込み上げてきた。
「こう表現しては語弊があるかも知れませんが、私は喜ばしいことだと思っております。
科学の、更なる進歩の軌跡を実感することが出来たのですから」
だって彼女の肩が
「そしてその礎を築いたのは、私達なのです。私達の研究は決して、無駄では、なかったのです。そうです。私達の、研究は…」
彼女の声が
「……こんなことのために…今まで頑張ってきたんじゃない!」
こんなにも震えていたから。

僕はその時まで気付かなかったが、彼女は右手に鉄パイプを握り締めていた。
確か研究所の奥にある廃材置き場にあったものだった。
そして目の前にあるいびつな形の管が無数伸びている実験道具に向かって、鉄パイプを両手で持ち頭上にゆっくりと振り上げた。
いけない!僕は弾かれるように彼女に向かって駆け出した。
壊しちゃダメだ!
彼女は短く息を吐くと、握り締めた両手を強く握り締めた。そして小さく息を吸い、鉄パイプを振り下ろした。
僕は間に合わないと思って急停止し、顔を伏せた。

ガラスや金属片が砕ける音が聴こえると思ったが、変わりに聴こえてきたのは、小さなすすり泣く声だった。
僕は恐る恐る顔を上げると、華奢な背中を丸め鉄パイプを握り、両手を震わせてた彼女がいた。
そのままの姿勢で始めは弱々しくすすり泣いていたが、理性の糸が切れたのだろう。
関を切ったように声を振り絞り泣き出した。
彼女が今まで大事に扱ってきた実験道具を壊すことなど出来るはずもない。
それはそうだ。
彼女にとってここにある全ての実験道具が、きっとお父さんの肩身なのだろう。
手からするりと落ちた鉄パイプが空しく地面を打つ。
彼女は感情の起伏に乏しく、常に理性的に行動する女性だった。
そうなるように心掛けたわけではなく、元々そういう性格なのだろう。
でも、両親の死や残された研究の完遂に追われてしまい、
さらに彼女の心の中に残されたたくさんの思いや気持ちといったものを隠してしまった。
それが今、崩れていく。

彼女自身も止めどなく流れ出す感情に耐えきれないように、声を上げ泣き叫ぶ。
僕は泣き叫ぶ彼女の後ろに立ち、肩に手をかけると、ここに来て初めて彼女は振り向いた。
彼女の両目にはいつもの力強い輝きは見られず、変わりに頬を濡らす宝石のような涙が、光を放っていた。
彼女は自分の瞳からこぼれ落ちる輝きをすくわんとするように、両手で目を押さえようとしている。
僕は彼女の瞳を見て、ますます何も言えなくなったが、そんな僕に彼女は力なくしだれかかった。
僕は何も言わず彼女を抱き締めると、彼女はさらに大きな声で泣きながら、何度も「ごめんなさい」と叫んだ。
戦争で亡くなった人達への懺悔だろうか、
亡き父へ研究を汚してしまったことへの謝罪だろうか、
それとも今まで手伝ってくれた僕へのお詫びだろうか、
わからない。
僕は強く彼女を抱き締め、精一杯の優しさを込めて「いいんだよ」と囁いた。
彼女はまた、その痩身が引き裂かれてしまうのではないかと思う程、強く泣き叫んだ。
何が正しくて何が間違っているかはわからないけど、一つだけわかることがある。
彼女は決して悪くない。

ここに来てからどれくらいの時間が経ったのだろうか?
もう外はすっかり暗くなり、研究所の中は外から入ってくる街頭の明かりでやっと見えるくらいだった。
彼女は、全身の水分が無くなるんじゃないかと心配するくらいに泣き叫んだが、
今はだいぶ落ち着いたようで僕の胸の中で大人しくしゃくり上げている。
壁にかけられた時計を見たが、暗くてなかなかよくわからない。
仕方なく腕時計を見ようと彼女の背中に回した腕を離すと、彼女も顔を伏せた格好のまま華奢な体を離した。
そして身を翻すとパソコン台に近づきボックスティッシュから二、三枚取り出すと、豪快に鼻をかみ始めた。
歩いた足取りが少し覚束無くて不安だったが、力いっぱいちり紙を使う姿を見てホッと胸を撫で下ろした。
どうやら一度では納得いかないらしく、彼女が何度も鼻をかむ間、僕は壁際まで手探りで進み照明のスイッチを入れた。

蛍光灯に照らされた研究所。ここしばらく足を運ぶことがなかったが、つい昨日来たばかりのような錯覚に見まわれる。
それ程、短かったが濃密な時間を過ごしてきた証拠だ。
初めはわけも解らずに連れて来られ、衝撃的な事実を告げられた。
次の日からはビーカーに涎を垂れ流す作業を言いつけられ、それだけではヒマなので彼女にご飯を作る仕事も加わった。
ここに来ることに慣れてくると実験やデータ作成の手助けをするようになった。
初めて『ヨーグルト』の威力を目の当たりにした時は本当に心臓が止まるかと思った。
そして毎日実験に明け暮れた夏休み。全く外に出ず、不健康この上ないことだったが楽しかった。
夏が終わってからはひたすらデータ整理とグラフや資料作りに終われた。
そしてここで過ごした最後の日。
僕らの研究の成果を実証する静かに稼働していたエンジン。
いつまでも僕を見送ってくれた彼女。
全て鮮明に思い出せる。

彼女と僕が大切に作り上げた研究。
でも尊いたくさんの命を奪う結果になってしまった研究。
今となっては無邪気だった思い出一つ一つが、残酷に思えた。
何がいけなかったのだろうか?僕と彼女が望んだことは研究の成功だけで、地位も名誉も栄光も望んではいない。
こんな結果になるなんて考えてもいなかった。その浅はかさがいけなかったのだろうか?
結果だけを見ればそうなのだろう。そして決して許されない罪を作ったのは僕達だ。
どんなに詫びても許しを乞おうとも、償いきれないほどの罪を抱えた。
だから望まなくても生まれてしまった結果を、僕達は受け入れなければいけない。

視線を彼女に戻すと、もう鼻はスッキリしたのか、無表情で僕を見つめる。
相当泣きはらしたため、目の周りは赤く腫れぼったくなっていたが、彼女だけが持つ力強い光は既に両目に宿っていた。
僕はそんな彼女を見つめ返し、安堵しつつも気持ちを引き締め小さな科学者に尋ねた。
「で、これからどうするの?」
彼女は相変わらず抑揚がないが決意を新たにした声で答えた。
「結論から申し上げれば研究を再開します。」
彼女は、僕が大きくゆっくり頷くのを確認すると、話を続けた。
「まずは研究の更なる追求による一般的活用段階の提示まで進展させ『ヨーグルト』の兵器外利用を訴えます。
それには突発性が低く熱量変換率が安定している『ケフィア菌』の性質を解明することが先決でしょう。
今後はこの研究を中心に進めていきます。それともう一つ。私達が作り上げた論文の行方です」
僕は自分の顔が強張るのがわかった。
彼女のお父さんの理論を元に、僕達で完成させた『ヨーグルト』は一体どういった経由で戦争に利用されたのだろうか?
「疑いをかける最有力候補としては私が論文を提出した研究団体でしょう。
そちらには父のつてで知り合いがいるので調査をして頂きます。

学会も疑念の余地ありですがそちらに打診をするには少し難しいのでしばらく対策を練るとしましょう」
「ちょっと待って。例えばさ、その戦争で兵器として利用されたのは、本当に僕達が作った『ヨーグルト』だったの?
他の人が僕らとは違った方法で開発した可能性だってあるんじゃないか?」
「その可能性も否定出来ないでしょう。しかし我々が開発した『ヨーグルト』と断言しても良いと判断します。
学会や団体が公表する研究内容では新たな理論を構築しない限り実用化は皆無でしたから。
そしてもう一点。ただ報道番組で紹介されるほど大々的に『ヨーグルト』という単語が出てくること自体に違和感を感じます。
本当に『ヨーグルト』…」
彼女はそこで一旦言葉を区切ると、軽く目を閉じた。
そしてもう一度目を開けた時、いつも圧倒されるような力強い輝きを放つ瞳に、
更なる頑なな決意という意志を込めて堂々と宣言をした。
「『ヨーグルト』…。…いいえ、『ケフィア』です!
本当に心から研究の成就を願う科学者なら人の命を奪う道具に自らの研究題目を名付けるわけがありません!
私としては『ケフィア』を研究するものに被害が及ぶことを望んでいるものがいるように思えるのです!
だとしたら決して座視出来ません!」
普段研究に対しては冷静沈着な彼女が、このときばかりは声を荒げ激昂した。

以前、彼女に聞いた事がある。初めて『ヨーグルト』の研究を試みた科学者が、
最初の実験材料として使用したのが『ケフィア』という菌を元に作られたヨーグルトなのだそうだ。
それ以来、『ヨーグルト』を研究する科学者の中には、その未知の可能性溢れる研究の敬意を表して『ケフィア』と呼ぶらしい。
きっと彼女は、悪用された自分の研究が良いことに使用されたいという願いを込めて、今『ケフィア』と呼んだのだろう。
それに、報道番組でニュースキャスターが何度も『ヨーグルト』と呼んでいたことを、
自らが言うことで思い出してしまったのではないか?あのテレビ画面が映し出していた惨劇を。
彼女の以前より輝きを増した瞳を見つめ返し、僕は改めて実感していた。
あぁ、初めて会った時から、彼女のこの瞳に惹かれていたのだ、と。
そして彼女がそうしたように、僕も心の中で決意を新にした。
もう絶対に、僕が大好きな彼女の瞳を陰させはしない。彼女は僕が守ってみせる!

「今後の対策は以上です。あなたにはまたご足労をお掛けするかも知れません。それを承知でご助力頂けますか?」
答えは決まっている。
「もちろん。ただしその前に…」
彼女は訝しげな顔で顔を横に傾げる。
「夕飯の買い出しに行こうか?どうせろくなもの食べてなかったんでしょ?」
僕はニッコリと笑う。彼女もつられて笑っ…たら良かったんだけど、いつもの無表情で首を縦に振っただけだった。
でも、それで充分だ。

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最終更新:2008年03月04日 14:06