五 章



ご飯といえば、僕が彼女の研究所での仕事の中に「食事つくり」という項目がある。
それは僕が始めて研究所に来てから4日後あたりの出来事から始まった。

まだ彼女とこの研究について詳しく理解していない頃、
僕は研究所の一角でただただビーカーに間抜けな犬のように涎を垂らしていた。
彼女から申し付けられた作業が「体液の採取」だけなので、そうするしかなかったが、
当時は僕の中に多少の羞恥心があったため、おしっこをクラスメートの女子に差し出すなど出来るわけなかった。
今では毎日の習慣のように平然とビーカーに入った尿を提供しているけど・・・
そんなわけで、形も大きさもさまざまな実験道具に並んで、頭が悪い犬のように唾液の採取に励んでいた僕は、
多数の実験をこなしている彼女を自然と目で追い、あることに気付いた。
彼女は実験道具をいじったり、観測データを懸命にバインダーへ記入したり、時にはパソコンに入力したり、
とにかくそんなに広いとは言えない研究所内をせわしく右往左往している。
そしてその合間、これまたせわしく袋入りのお菓子やタブレットや果物、果ては栄養剤などを口に運んでいる。
時々、ビーカーで沸かしたお湯でカップラーメンを食べているのを見たこともある。
その姿を眺めながら僕は、随分栄養が偏るような食生活をしているなと思った。

栄養剤などでバランスを取っているつもりだろうが、やはりお菓子や即席麺では満足な栄養は補えないだろう。
しかもあの量を食べれば、どんな大飯食らいでもお腹が満たされるはずである。夕飯代わりなのかな?
だったらなおさら健康に良い食事とは言えない。
僕は体液の採取という唾液を垂れ流す作業を一時中断して、研究所内に設置されてある大型冷蔵庫を開けてみた。
『ヨーグルト』の研究は米や乳製品などの食品を研究対象として扱うため、自然と製品保持用の冷蔵庫が
他にも4つほどある。その中の一つ、この大型冷蔵庫をどうやら彼女は自分の食料庫として使っているらしい。
彼女がこの中から、果物や飲料水を取り出しているのを何度か目撃している。
中を開けて、僕は愕然とした。冷蔵庫の壁側には大量の清涼飲料水。これは普通だが、
普段彼女が食べている果物、お菓子、栄養剤だけではなく、カップラーメンまでもが冷蔵庫内に入っていた。
栄養剤やカップラーメンは普通に室内に置いてもいいんじゃないか?

しばらく呆然と冷蔵庫内を眺めていると、いつの間にか彼女が後ろに立っていた。
「そちらの飲料水とバナナ、カロリーメイトを取って下さい」
急に話し掛けられて驚いたが、丁度良い機会だったので彼女にこの中の物について聞いてみた。
「あの、いつもこういうものしか食べてないの?」
彼女は、相変わらず無表情だが、力強い瞳を僕に向けて
「あなたはこの食品及び食材を食べた事がないのですか?」
と、これまた抑揚のない声で僕に質問返しをした。
「いや、そうじゃなくて。もちろん食べたことはあるよ。ただこういうのばかりだと栄養が偏らない?」
「栄養摂取の偏りで私の身体能力や思考能力に現在異常は発生していません。
空腹が満たされれば問題がないのでは?」

僕はそれを聞いて、ため息を一つ吐いた。どうも研究については素晴らしい集中力を発揮する彼女でも
こういう面に関しては、トンと無頓着らしい。
「今はいいかもしれないけど、僕たちみたいな成長期に入った子供には充実した栄養が必要なんだよ?
それにきちんとした美味しいご飯を食べたほうが、食事って楽しいじゃないか。」
「興味がありません。それよりも早急に先程申請した食べ物を渡して下さい」
僕は再び大きなため息をつくと、冷蔵庫から彼女に食べ物を渡した。

次の日の放課後、いつもは彼女と仲良く(?)研究所兼彼女の自宅に向かうのだが、
駅についてから僕は彼女と別ルートで行動することにした。先に行くよう彼女を促すと、
彼女は数秒間僕を凝視した後、「では」と短く言うと、自宅へ足を向けた。
その彼女を見送って、僕は駅構内にあるスーパーマーケットへと向かった。
都心から少し離れているためか、そんなに大きくない駅だったが、ちょっとした住宅地のためか、
きちんとしたスーパーマーケットが構内にある。
僕はそこで食材を調達し、急いで彼女の元へと赴いた。
研究所に入って「遅くなってごめん」と声を掛けると、彼女は僕のほうを見向きもせず「いいえ」と呟き、実験に専念していた。
僕も特に気にせず、大型冷蔵庫脇にある簡易型電気コンロに電源を入れた。
もちろん、料理をするためである。

実は僕は中学校のときにどこの部活にも所属せず、「料理研究会」に属していた。3年生の時には会長も務めていた。
もともと料理が好きだったということもあったが、それ以上に運動が苦手だったという事実もある。
それに、僕は小学生の頃に父親を病気で亡くしているので、時間が不規則な勤務の母親と二人暮らしなせいか自然と料理を覚えた。
なので、人一倍料理や食事に興味がある僕としては、不摂生をむさぼる彼女の生活がどうしても我慢出来なかった。
僕はスーパーで買ってきた食材を近くの台に並べながら、これから作る料理の調理手順を頭の中で確認していた。
昨日、冷蔵庫内にある食ベ物を見たところ、栄養剤で補ってはいるものの、確実に不足しているのは
野菜などのビタミンや食物繊維。そして、たんぱく質。簡単なところで野菜のスープと魚介のパスタでも作ってみよう。
野菜のスープは手軽に飲めるようにジャガイモのクリームスープ。パスタはペスカトーレ。
まずは手始めにジャガイモの皮を剥く。この家の包丁は長年使ってなかったのになかなか切れ味が良いな、などと思いつつ、
ジャガイモの皮を剥くシャリシャリという心地良い音に合わせて、いつの間にか鼻歌を歌っていた。

ジャガイモの他に玉葱と長ネギ、にんにくも下ごしらえをして、軽く鍋で炒めた後、固形ブイヨンと一緒にじっくり煮詰める。
その間、残ったジャガイモを細かいサイの目切りにして、フライパンに厚めに油を敷き揚げる。
スープの最後に入れて、浮き身代わりにするのだ。触感も良くなる。
次はペスカトーレに取り掛かる。浅利と何か海老があればいいかな、と思っていたがなんと手長海老が売っていたので、
僕はついつい値段も確認せず買ってしまった。
トマトはホールトマトの缶詰でいいかと思ったけど、運良く色がしっかりとした完熟トマトがあったので、そのまま使用することにする。
あの駅構内のスーパーマーケットはなかなか良い品を取り揃えていることに関心をした。

浅利を白ワインで蒸して、にんにくやバジルで香り付け。最後にぶつ切りにした手長海老と、サイの目切りにした完熟トマトを
軽く炒めてこちらは完成。後は時間を見てパスタを茹でるだけだ。
だいぶ煮詰まったスープをミキサーにかけたら丁寧に裏ごしをしてまた鍋に戻す。
ミルクと塩コショウで味付けをしたら完成だ。
その間にパスタも茹で上がり、フライパンで絡めてこちらも完成。
戸棚にあった皿に盛り付けて、食卓兼実験用台に乗せようと振り向くと、彼女がすぐ後ろに立っていた。
僕はびっくりして飛び上がったが、なんとか皿は落とさずに済んだ。
後ろにいるなら声くらいは掛けてくれてもいいのに…。というか、いつからそこにいたんだろうか?
彼女は僕には一切目を向けず、皿に盛られたパスタをさっきから凝視している。なんだかその視線が怖い。
調理台を勝手に使ったことを怒っているんだろうか?
「あ、あのさ。勝手にここ使ってごめんね。なんか料理がしたくなっちゃってー・・・なんてねー…」
料理から全く視線を逸らさず微動だにしない彼女に、僕は恐る恐る伺いを立てた。
「あ、あのー。…食べます?」
すると彼女は無言で頭を二度、縦に振った。

僕はホッと胸を撫で下ろす。別に怒っているわけではないみたいだ。
安心して食卓に皿を並べ、彼女を座らせる。僕はその向かい側に座り、「いただきます」と食事の始まりを合図した。
彼女も小さく「いただきます」と呟くと、黙々と料理を食べ始める。
僕は始めドキドキしながら彼女の食べる姿を見ていたが、特に味には問題なさそうだ。
今まで研究の合間にイスに座りもせず、栄養剤やお菓子を食べている彼女しか見てなかったので、
きちんと座り、食事を取る姿を見ていると嬉しくなる。
彼女はすぐにジャガイモのスープを飲み干したので、僕はさらに嬉しくなりスープボールに二杯目を並々注いであげた。
「どう?美味しい?」
「んぐ。はい」
嬉しさのあまり、僕はまるで新婚当初の専業主婦のような質問をしてしまったが、彼女は素っ気無く返事を返してきた。

「ジャガイモが残ったからさ、鍋にポトフを作っていくよ。そうすれば朝とかにも食べれるから」
「もぐ。感謝を申し上げます」
そんな会話を交わしつつ、僕は良い機会だと思い前から抱いていた懸案事項を聴いてみることにした。
「あのさ、君っていつまで経っても喋り方が堅苦しいよね。僕も普通に喋っているんだからさ、君も敬語抜きで話そうよ」
すると彼女は両手に持ったスプーンとフォークの動きを止めずに、返事を返してきた。
「ぱく。母に人と会話をする際には必ず丁寧語もしくは敬語を用いるように指摘をされましたので」
「なんで?」
「んん。私の会話内容が感受性に乏しく他人に威圧感や不快感を与える恐れがあるからだそうです」
今でも充分威圧感は感じているのに、これが普通の言葉だったらもっとすごいのか・・・。
僕は納得しつつも、ここにきて初めて気付いたことがあった。
「そういえば、君って一人暮らし?おうちの人っていないの?」
「もぐ。おりません。当建築物の世帯主は私ということになっております」
「え、じゃあ君のご両親は?」
「2年前に事故でなくなりました。んぐ。」
僕は質問をしてから、しまったと思った。よくよく考えればすぐわかるようなことだったのに。
デリカシーに欠ける自分を心の中で罵った。

それでも黙々と食事を続ける彼女。よっぽど口に合ったのか、僕には目もくれず一心不乱にスプーンとフォークを動かす。
しばらくは気まずい空気の中、食器が触れ合う音だけが研究室に響いた。
しかし、その沈黙をやぶったのは珍しく彼女の方だった。
「もぐもぐ。私の両親は2年前に渡米の最中に飛行機墜落事故により亡くなりました。以来私は自分の意志でここにいます」
急に話し始めたので、僕は少し驚いて彼女の方を見た。
さっきの僕の質問に対する返事の捕捉のつもりなのだろうか?
まだ何か言うのかと待っていたが、彼女はそれっきり相変わらずの無口を守った。
僕は彼女について何も知らない。
彼女が自分から話すことはなかったし、知ろうとすることが怖かったというのもある。
でも、それで本当にいいのだろうか?
別に彼女にとってはどうでもいいのだろう。研究に支障があるわけでもないし、不必要なことには興味も示さないだろう。
ただ、僕の中で彼女に対する興味が沸いてきた。
以前の様な研究を間に挟んだ興味ではなく、素の、そのままの彼女に対しての興味だった。
どういう環境で育ち、何を感じ、何を思って生きているのか。
彼女のことをもっと知りたい。そう本気で思った初めての瞬間だった。
「リクエストがあったら今度作るよ。何が好き?」
「小麦粉や澱粉質を使用した食品。むぐ。」
これはまた、幅の広い指定できたな。でもいい。こうやって少しづつ彼女のことを知っていけばいいんだ。
華奢な身体に詰めるだけ詰め込む、といった勢いで僕が作った食事を平らげていく彼女。
そんな姿を見て、僕は思わず微笑んだ。

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最終更新:2008年03月04日 14:05