三 章



梅雨入りにはまだ早い、春の温かな風が気持ち良い6月上旬の朝。
その日、僕は少し早めに登校をした。
教室にはクラスメートがちらほらいたが、きっと電車通学の遠方組なのだろう。
学校に間に合う時刻に合わせて電車に乗ると、どうしても早く着いてしまうらしい。
ただ、早朝の教室は思った通り静観だった。
元気に朝練をする部活動はあったが、この学級校舎と運動グラウンドの間に、
実験棟校舎があるため幸い、青春の一ページが奏でる騒音は聞こえてこない。
集中して授業の予習が出来る。
僕は、鞄から教科書や筆記具を出しつつ、こないだ行われた中間テストのことを思い出していた。

高校に進学をしてから、初めて行われた試験。
僕は格別な意気込みで挑んだつもりだった。
授業中も先生の講義を聞き逃さぬよう集中した。
家に帰ってからも毎日欠かさず、机と長時間にらめっこをした。
休み時間も、時々だったけど予習復習に専念した。
きっとコレくらいの努力をすれば、自分が空想した以上の成果は望めただろう…
そう、僕は高を括っていた。
それなのに、思ったほどの成果が得られなかったのである。
結果だけを見れば、それ程に悪い成績ではない。
ただ、全体のレベルの高さに、僕は圧倒されてしまった。
このままの実力では、これ以上に上がることが難しいのではないか?
むしろ、置いていかれはしないだろうか?

そんなことを一度考えてしまうと、心配性な性格がむくりと顔をあげ、僕を意地悪く焦らす。
後は不安が解消されるまで足掻くしかないのである。
とにかく、次の期末テストでは納得がいく結果が欲しかった僕は、思考を机の上にある教科書に移行した。
勉学に没頭すること数十分。
僕がいつも登校してくるような時間になると、クラスメート達がぽつりぽつりと増えてくる。
入学してから出来たわずかな友人達が、いつもより早い到着の僕に気付き、朝の挨拶から簡単な会話を始めた。
昨夜のドラマのあらすじ…夢に出てきた憧れの女性との陳腐なラブストーリー…今日の占い…
僕ははじめ、教科書に目を通しながら友人の話に耳を傾けていたが、
次第に学習意欲が薄れてきたことを感じ、机の上を整頓し始めた。
すると、いつの間にそこにいたのか、静かなる隣人、無口な彼女が、僕を直視したまま立っていた。

普段なら挨拶を交わすことなく、そのまま席に座りいつものように机にかじりつく彼女だが、
その日は違った。
痩身で小柄な身体だが、ぴんと伸びた背筋。いつも変わらないひょこひょこ揺れる短めのツインテール。
感情を一切窺えない表情とはミスマッチな力強い瞳が、僕の両目をとらえていた。
僕はいつもなら有り得ない状態に困惑した。
何故、彼女がこちらを凝視している?
何かあったのだろうか?
何か彼女の気に障ることをしたのだろうか?
身に覚えなど全くない。
だが、彼女は視線を僕の両目に合わせたまま、一切微動だにしない。
僕の方も、金縛りにあったように動けない。
呼吸をすることも憚らるような沈黙だった。
目があってから、実際は5秒間くらいしか経っていないはずだったが、
僕には永遠に時間が止まったかのような感覚を受けた。
しかしいつまでも続くことのない沈黙を破ったのは、か細く消え入りそうな彼女の声だった。
「今日、学校が終わりましたら我が家まで同行願います」

僕は始め、彼女の言ったことの意味を理解出来なかった。
頭の中で彼女のセリフを一度分解してみた。
「学校が終わったら」…これはわかった。大丈夫だった。
次に「我が家に」…つまり彼女の家に、だよね?
最後は「同行願います」…一緒について来い、で合ってるだろうか?
解読すると、放課後、彼女の家に、一緒に行く…。
何故!?
僕の思考はもう一度そこで停止した。
家に誘われる程に仲が良かった覚えもなければ、彼女の家に行かなけばならない理由も思い付かない。
全く思いもよらない彼女の言葉を、僕は何度も反芻したが、考えれば考える程、訳が分からなくなってしまう。

急に頭をハンマーで叩かれたように、僕の頭はグワングワンに揺れっぱなしだったが、
視線は彼女の輝く宝石のような二つの瞳に縛り付けられていた。
僕は、彼女が他に何か言葉を続けるのかと、待っていたが
(むしろ、何か言って欲しかった。判断材料が少なすぎる)
彼女は僕の沈黙を了承したと判断したのだろう。
視線を外すし、くるりと振り向くと自席に座り、いつもの作業を開始した。
僕はといえば、しばらくそのままの体制で固まってしまい、口をパクパクするしかなかった。
この日一日、僕は全く授業に集中する事が出来なかった。
おかげで早朝の自主勉強が無駄になってしまったが、後悔する程の心の余裕などその時はなかった。
恥ずかしいことだが、僕は女子に家へ招待されたことも、中に入ったこともない。

その機会が今日、唐突に訪れたのだった。
それも、ほとんど会話を交わしたことがない、隣の彼女から。
本来ならば喜ぶべきことなのだろうが、今はそんな気分にもならない。
僕は、彼女が何か話してくれることを期待したが、
結局放課後、「それでは」と言うまで、いつもの姿勢でペンをノートに走らせることに没頭していた。
僕の苦悩など全く意に介していない程に、放課後までは無視だった。
僕は、そんな彼女のことが、だんだん不気味に感じてきた。

学校ではいつも同じ行動。
誰と話すことがなければ、交流を持とうともしない。
彼女が何を考えているのか、学校以外では何をしているのか、誰も知らない。
正直、彼女の家に行くということに微かな抵抗があった。
そんなに仲良くないクラスメートの家に行くのは、実際問題いかがなものか?
普通に考えておかしい。
それに、僕は少し怖かった。
学校以外での、謎に包まれた彼女を見ることが、知ってしまうことが。
何か触れてはいけないものに触れようとする感触。
それが僕の心から平静心を奪いながら、代わりに臆病な気持ちを落としていく。
結局、色々な思考や感情が頭の中で渦巻いたまま、僕は彼女の短過ぎる催促に促され学校を後にした。

全く歩調を変えずに、姿勢が良い歩き方でスタスタ進む彼女。
その後ろを、頼りなげについて行く僕。
彼女は、僕がきちんとついて来ているかなど、いちいち確認をしない。
ただただ、前を向き歩いていく。
僕は、彼女が本当に一緒にくるよう言ったかどうだか疑問を持ち始めた頃、
先行者は、急にくるりとこちらを振り返り、
「末広町まで行きます」と告げ、また踵を返し歩き始めた。
末広町はここから二駅先である。
駅に着き、改札を抜けると間もなく電車が到着した。
電車に乗り込み、座席に座るやいなや、彼女は鞄から分厚い本を一冊取り出し、
カラフルな付箋紙が5~6本ついてある目次から黄色い付箋紙のところのページを開き、読み始めた。
僕は、取り敢えず彼女の横に座り、所在なさ気に車内をキョロキョロ見回していた。
幸い知人はいないようだ。
ほっと胸をなで下ろし、何気なく隣の彼女を見た。

色白な肌に華奢な身体。髪の色素も薄いのか、光があたると茶色に輝く短めのツインテール。
そして、横から見てもわかるほど、どこまでも力強い瞳。
キラキラ光る美しい瞳。
僕はしばらくの間、彼女に見とれていたが、そんな自分にハッと気付き、慌てて顔を背けてしまった。
彼女は、そんな僕が目に入らない程、本に集中していた。
視線を泳がせつつ僕は、「そういえば初めて女子と一緒に下校している」と思い、
またもや心中で一人で慌てふためいていた。

末広町は、ショッピング街というわけでも商業都市でもない。
民家やマンションが立ち並ぶ平凡な住宅街だ。
学校からはそう遠くないが、僕のクラスメートに末広町に住んでいる人は少し聞いたことはあるがほとんどいない。
駅を抜けると、彼女はまた無言のまま僕を促し、歩き始めた。
彼女の家が近いのかと、僕はドギマギしていたが、その高鳴る思いは、やがて疲労へと変わっていく。
…20分は歩いただろうか。
一向に変わらないペースで歩を進める。
その彼女について行くが、いつになったら着くのかわからない。
駅からずっと一本道を進んでいるはずだ。
それになのに、徐々に人気が薄い街並みに進んでいく。
ここまで来ると、マンションはほとんどなく、一軒家がまばらに立っているくらいだ。
だんだんと不安になってきた僕は、言葉を忘れたのではないかと本気で心配したくなる程、無口な彼女に、
何度か声をかけようとして諦めたが、そろそろ我慢の限界である。
せめて、あと何分かかるのかくらいは聞きたい。

僕は意を決して、話しかけようと早足に駆け寄った矢先に、突然彼女が立ち止まった。
僕はその拍子に前につんのめってしまい、情けないことに、彼女を後ろから抱き締める格好になってしまった。
突然のアクシデントで、華奢な彼女の背中に抱きついてしまい、僕はパニックになってしまった。
慌てて彼女から弾けるように離れ、
「うわああ!ごめんなさいごめんなさい!!わざてじゃないんだ!
いや、本当に違うんだ!変なことをしようとしたわけじゃなくて!
いや、してしまったんだけど!とりあえずごめんなさい!!」
と、土下座せんばかりの勢いで謝罪をした。
しかし、そんな僕をいつもの凝視で見つめて一言、「着きました」といった。

僕は、脳内がすでに災害時並みのパニック状態になっていたので、彼女の言葉を数秒理解出来なかった。
「いや!突いたんだ!あれ?!付いたんだ!そうなんだ、着いたんだ!
本当にごめんなさい!…え?着いたの…?」
そう言うと、彼女は一度だけ頷き、真横のそれを指差した。
それは、民家とはとてもだが言える代物ではなく、少し小振りな工場のような建物だった。

道路に面した入り口を抜けると、
そこにはところ狭しと見たこともない研究道具のようなものが、大小並んでいた。
円柱ガラスが二重になっている中に、ぐにゃぐにゃに曲がった細い鉄の管が入ってあるものが、
大きさ違いで4、5個並んであったり、
人が一人入れるくらいの、金属製の足付き球体があったり、
理科室でよく見るビーカーやフラスコを、信じらんない数が収納された棚があったり。
他にも形容しがたい実験道具がたくさんあり、そのほとんどが奇妙なモーター音を発しながら稼動していた。
この何か不思議な実験所のような室内に呆気にとられていると、
白衣に身を包み、空のビーカーを片手に持った彼女が奥から現れた。

僕は一瞬ビクッとして、一歩後ずさったが、いつもと変わらない彼女が無表情で立っているだけだったので、
ホッと胸を撫で下ろした。
僕は、この場所に来たときから、彼女はいよいよまともではないと確信していた。
いつもノートに不可解な数式を、ひたすら書き綴っているのも、ここに来て納得出来た。
しかし、僕は彼女に対してもっと悪い意味での想像をしていたのである。
人間を人間と思わない非道な科学者のようなものとか、
裏の世界に通ずる危険な物を製造しているような団体とか。
まぁ、昔テレビやマンガで見たような、マッドサイエンテスト的なものだ。
僕の貧相な想像力では、そんな幼稚な考えしか浮かばない。
しかし今、目の前にいる彼女を、彼女の目を見ればそうではないことが、何となく分かる。

彼女の瞳はいつもと変わらずに、僕の心まで見透かされているかのように、真っ直ぐ力強い。
まだまだ人生経験の浅い僕だが、彼女が良い人間か、悪い人間かは、その瞳を見ればわかる。
その瞳の輝きは、性根が曲がった人間が写せる光ではない。
この自分の家(?)に来て、僕にこの異様な光景を見られても、
同じように、同じ真っ直ぐさで僕を見つめる瞳に嘘は微塵もない。
きっと、彼女は大丈夫だ。
そんなに奇怪なことを僕に施すはないだろう。
まだ彼女の事は何も知らないが、この点だけは信用出来る。
僕は、彼女から送られる微動だにしない視線に、軽い微笑みを返した。
すると、彼女はそんな僕に反応する代わりに、手に持った空のビーカーを差し向け、抑揚のない声で呟いた。
「この中に可能な限りあなたの体液を抽出して下さい。唾液でも尿でも血液でも構いません。」

前言撤回。
もうしばらく彼女に対して、警戒を解くのは慎もうと思った。

彼女が僕を玄関まで見送り、「では、また後日」と言い、ドアを閉めた後も、しばらく僕は呆然と立ち尽くした。
これまで我慢していた疲れがどっと溢れてくる。
少し大袈裟な言い方だが、僕はこの世界の隠された一部を垣間見た気分だった。
彼女は確かに奇怪でも悪人でもなかった。
ただ、理解出来ない分野に属する人だった。

ビーカーを僕に差し出し、再び動かない彼女。
同じく動かない、いや動けない僕。
またもや、脳がフリーズしてしまった。
理解不能過ぎる。
そんな僕を見つめ、沈黙する姿をまた肯定と捉えたのだろう
(どうやら彼女は、相手の沈黙を、反論無しと解釈するらしい)。
ビーカーを近くのテーブルに置くと、近くの奇妙な実験道具を操作し始めた。

手早く実験道具の操作盤をいじり始め、作動音を確認すると次に違った形の実験道具に取り掛かる。
やっと自我が戻ってきた僕に湧き上がり始めた感情は、彼女に対する少しの怒りだった。
何故こんなところまで来て、自分の体液(?)を提供しなくちゃいけない?
そもそもここはなんの実験所だよ?
彼女は何をしているんだよ?
僕の体液をどうする気だよ?
一つも説明を受けてない。
協力なんて出来るものか!僕は、不満をぶちまけるように、彼女に詰め寄ろうとした。
「あ、あのさー!」
少し大きい声を出してしまった。
その僕の声に反応したのか、彼女は、急に首から上だけを僕に向け、
いつもの力強い視線で次に言おうとした僕のセリフを、封じ込めた。

情けなくも、彼女の視線ひとつで何も言えなくなり、口をパクパクするだけの僕だったが、このままでは、男がすたる。
僕は唾を一つ飲み、やっとの思いで彼女に問いかけた。
「ここは、何をするための場所なの?」
彼女は、しばらく無表情のまま僕を見つめたが、
「突発性過発酵エネルギーについて研究をしている実験所及び私の住居です。」
とだけ言うと、また実験道具に向かい始めた。
突発…エネルギー…?
正直聞いたことのない単語だ。
全く理解は出来ないが、彼女は聞いたことには、一応きちんと答えてくれるらしい。
一度大きな声を出したせいか、少し緊張は消えたようだ。

僕は自分の中で、質問を整理して彼女に再び問いかけた。
「まずは、その突発…何とか?エネルギーについて、もう少し詳しく説明をして欲しいな。
それと、なんで僕をここに連れて来たのか、そして僕の体液?を何に使うのかも教えて欲しい。いいかな?」
さっきよりは、落ち着いた声で言えたためか、
彼女は今度はゆっくりと、こちらに振り向き、数秒沈黙した後、
「わかりました。ご説明を致します。」と言うと、いつもの抑揚のない声で語り始めた。

「突発性過発酵とは通常ならば炭水化物などを酵母菌でアルコールと炭酸ガスに分解する発酵作用を
特殊な微粒子を加えることで一度発酵作用を抑制しそこにその特殊な微粒子を分解する因子を
投入することにより突発的に発酵させます。その時に生じるエネルギーが突発性過発酵エネルギーなのです。」
息継ぎ一つ無く、一気に喋った彼女。
そして僕を捉えた両目で、理解できたかどうかを無言で確かめる。
正直、いまいち掴めない内容だ。科学の授業でもそんな話聞いたことがない。
質問がまだ山積みだが、とりあえず彼女の話を聞こう。
「突発性過発酵エネルギーは今から30年前とある健康食品会社が研究を始めました。
当時から国内ではエネルギー源の確保に苦悩をしていましたので実験が成功すれば
かなり高効率なエネルギー源が得られるはずでした。」
全く余計な感情を挟まず、彼女は淡々と話し続ける。

「しかし実験は全く進展せず学会や投資をしていた企業からも徐々に見放され始めました。
更に近年では当たり前のように使用されているバイオエネルギーが
一般的に庶民の生活に定着してからはこのような研究に邁進する科学者はますます嘲りを受けるようになりました。
現在ではこの研究をしている科学者及び団体は世界にも僅かしかいなく、
突発性過発酵エネルギーのことは実験の一番始めに用いられた発酵素材が
乳製品だったため『ヨーグルト』と俗称されています。」
ここに来てから、どうも鼻をつく匂いだと思っていたのだけど、
今の話を聞いて確かにヨーグルトに似た匂いだと気付いた。
僕のあまり好きじゃない匂いだ。

「その、突発性過発酵エネルギーっていうのはだいたいわかったよ。
それで、僕を何のためにここへ連れてこられたのか、聞いていいかな?」
「先程も説明したように『ヨーグルト』を完全なエネルギー源として昇華させるには
発酵を抑制する特別素粒子とそれを分解する因子が必要と説明をしました。
その『ヨーグルト』にとって二つの必要不可欠な物質は人間の体内で生成されるのです。
ただし誰の体内でも生成されるわけではなく特別な人間にしか生成する機能がないのです。
その確率は約一万分の一。」
そこまで話すと、彼女は僕にその続きを無言で、促した。その瞳は、もう理解しただろう、と語りかけている。
「つまり、その適性があったのが、僕?」
「そうです。」
言ってから、また驚愕しかけた僕をフォローするように、
「と言っても先天性の病気でも何かの疾病を誘発することはありません。
体質みたいなものです。発酵食品が苦手では?」
「…うん。アレルギー持ち…。」
「でしょうね。その程度の障害です。」
自分の体質について、なかなか興味深い発見をした僕は、ふとあることに気付いた。

「ところで、何で僕だってわかったの?君にアレルギーの話でもしたっけ?」
そもそも、まともに会話をすること自体が初めてだ。
しかし彼女は、僕の質問にあっさりと答えた。
「先日校内で行われた尿検査で判明しました。」
そういえば、一週間ほど前に、クラス全員の検尿を集めている彼女の姿を思い出す。
いつもと違う動作をする彼女を、物珍しげに眺めていたっけ。
僕は、一気に納得をした。彼女は、それが目的で保健委員になったのである。
「あなたの体内にある抑制作用を引き起こす素粒子は尿やその他の体液から簡単に抽出可能です。
ただしこれからはその抑制物質を増殖する手段を発見しなければなりません。」
「はぁ、それはかなり大変だね。」
少し間の抜けた返事をした僕に、彼女は変わらぬ抑揚のない声で答えた。
「いえ、それ程ではありません。分解因子の方は増殖に成功してます。きっと同じ要領でいけるかと。
あとは微調整と実験さえ重ねれば『ヨーグルト』は完成します。」
「へぇ、すごいね。…?でも、待って?その抑制物質の方は僕だってのはわかったけど、
分解する方のは誰から見つけたの?それも、やっぱり身近な人?」
「私です。」
…わずかな沈黙の後、僕はある程度認識出来た事実に、納得の意を表した。

「わかった。じゃあとりあえず、このビーカーに入れればいいんだね。えぇと、
血は無理として、尿も恥ずかしいから、唾液でいいかな?」
「協力に感謝します。」
「それと、どのくらいの量を入れればいいのかな?ビーカー一杯っていうけど、さすがに、ねぇ?」
「抑制物質を無限増殖まで進めるためにはまず大量のあなたの体液から摘出する必要があります。
 もう少し大きな容器をご用意しましょうか?」
「…いや。まずはビーカーで結構です。」
「それでは始めて下さい。」
彼女は、相変わらず無表情のままそう告げると、再び実験道具に向き直った。
そして、目線は機械に取り付けられたディスプレイに向けたままで、静かに語り始めた。

「学会ではこの突発性過発酵エネルギーを実験することを『ヨーグルト』と呼称しますが
これは彼ら達なりの蔑んだ呼び方なのです。可能性が限りなくゼロに近いことに執着するもの達への嘲り。
それに対して私は異存はありません。どう呼称しようがそれは単なる個体の識別方法に過ぎませんから。
事実私も『ヨーグルト』と別称しますし。」
それは、僕に対して語りかけているのではなく、まるで、自分自身に対して語りかけているかのようだった。
「ただしこの研究の第一人者は当時誰よりも先駆けて研究を始めた今は無き健康食品会社に敬意を表して
『ケフィア』と学会に提出した論文に記していました。」
「『ケフィア』?」

「そうです。突発性過発酵エネルギーの研究に使用されたヨーグルトの種類がケフィア菌だったといわれていたためです。
『ケフィア』は我々『ヨーグルト』について研究を重ねる者にとっては未知なる可能性を意味します。
そして『ヨーグルト』を蔑称と感じる研究員は『ヨーグルト』とは決して言わず
『ケフィア』と言い表します。『ヨーグルト』は未だエネルギー資源になるには可能性が低い分野の研究ですが
もしも成功すれば現在一般的に使用されているバイオエネルギー、以前はバイオマスエタノールと呼称されておりましたが、
それよりも遥かに低資質で高エネルギー資源が得られるはずなのです。」
「へぇ。どういった原理でそうなるかはわからないけど、すごいんだね、『ヨーグルト』って。」
「そうです。バイオエネルギーが定着した現在でも資源の確保面が問題視されていますが、
その難題を解決する可能性を秘めているのが『ヨーグルト』…」
そこで彼女は、一旦言葉を区切り、しばらく思案するように静止した。

そして、何かを決意するように、いつも以上に力強い瞳を僕に向けた。
「『ヨーグルト』…いいえ、『ケフィア』です。例え1%しかない可能性でも構わない。
この研究は必ず成功させなければいけない。私自身の為にも。そして…」
その時、僕は初めて彼女が既存の事実や事象を淡々と述べるのではなく、彼女の意思、感情を交えての言葉を聞いた。
そこで彼女は、また一旦言葉を止めた。
「…成功まで後もう少しなのです。それまで私にはあなたが必要です。ご協力を頂けないでしょうか?」
激した自分を戒めるように、いつもより更に抑揚に欠ける声で語りかける彼女だが、
両眼に宿った力強い光はそのままだった。もちろん断るわけにはいかない。
そんな重要な役割を、自分が担っているとは考えてもいなかったし、何より興味があった。

それからその日は、僕に彼女は唾液の提供と明日から放課後、毎日ここに来るよう簡単に言い渡し、
再び無言で研究に没頭し始めた。
僕は、そんな彼女の姿を見つめながら、間抜けな犬のようにただ涎を垂れ流す作業に従事した。
そして、その日はビーカー半分の唾液を彼女に渡し、研究所兼彼女宅を後にした。
長い帰り道をゆっくり歩きながら、僕は今日あった色々なことを、頭の中で整理していた。
突発性過発酵エネルギーについて。自分が特殊なものを体内に持っていることについて。
彼女も特殊なものを体内に持っていることについて。
そして、明日からは飲料水持参で来たほうがいいな、とカラカラになった口の中のことを思った。
様々なことを考えていたが、さっきからもう何度目になるかわからないくらい、
彼女の整った顔には似合わない無表情と、どこまでも真っ直ぐな力強い瞳を思い出した。
その度に、僕は無意識に高鳴る胸の鼓動を感じていた。
そして、赤くなりつつある空を眺め、また一つ溜め息をついた。


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最終更新:2008年03月04日 14:04