二 章



入学してから一カ月。クラスメートにも授業にもだいぶ慣れてきた頃、
クラス内で彼女に対するささやかな噂が流れていた。
僕の隣の席に座る彼女は、登校してから下校するまで、
ほとんど移動することなく机にかじりつき、ノートにペンを走らせる。
それは休み時間でさえ変わらない。
もっとも、休み時間でも勉学に勤しむ生徒は、そう珍しいことでもない。
僕も授業でわからない事があれば、休み時間を利用して復習に励む。
ただ、彼女に対する違和感はそうではなく、授業中に気付く。
たぶん、最初に気付き始めたのは、彼女の後方に位置するクラスメート達だろう。
授業中は、教師が講義を繰り広げ、重要なポイントは黒板に記載する。
生徒は黒板に書かれた内容をノートに書き写す。
それが普通の授業風景だろう。
熱心に講義をしながら教壇を左右に移動するのが教師の姿であり、
頭を上下しながら教師の話とノート記入に励むのが生徒の姿である。
しかし、彼女は違った。

授業中に彼女の首から上が上がることはない。
ひたすらノートにペンを走らせる作業に没頭するのである。
そんな彼女の授業態度を咎めた教師がいた。
古典教科を担当する40歳半ばの男性教師である。
彼の授業の進め方は、他のそれとは異なるもので、
黒板は一切使わず、教室内の机と机の間を闊歩しながら行う。
なので、生徒達のほとんどは顔を上げ、教師の話に聞き入る形になるので、
彼女の姿勢は極めて異彩を放っていた。
授業開始から気になっていたのだろう。
その男性教師は授業が半分に差し掛かったところで、彼女を咎めた。
急に自分の名前を呼ばれた彼女は、ピタリとペンを止め、ゆっくりと男性教師に視線を合わせた。

相変わらず感情を全く感じさせない、しかしそれでいて力強い瞳だった。
きっと、この男性教師も彼女とまともに相対したのは始めてなのだろう。
言いかけた台詞が一瞬、息を飲み、止まった。
だが、やはり自分の教師としての威厳を誇示しなければいけない性があるのだろう。
彼女のそばまで来ると、机の上に置かれたノートを眺めつつ、声高に説教を始めた。
「君はいつも私の授業では内職に勤しんでいるようだな。気付かないとでも思っていたのか?
そうやって授業内容を、その授業内に処理出来ない輩はいずれ他の生徒について行けなくなるんだ。
君は今、物理の復習か課題を消化しようと躍起になっているようだが、そんなことでは…ん……?」
彼の朗々とした演説は彼女がペンを走らせていた、それによって阻まれた。
先程の彼女と目が合った時よりも長い静止の後、男性教師は目を白黒させながら、彼女に問いた。
「…これは、何だね?」あまりにも間の抜けた質問だった。

僕は興味本位で、彼女のノートをちらりと盗み見し、驚愕のあまり二度見をしてしまった。
彼女の後ろ席にいた男子も同じく唖然としていた。
それはそうだ。
彼女のノートには、隙間のないくらいに、見たこともない数式がびっしりと並んでいた。
物理の得意な僕だったが、さっと目を通しただけで理解出来たことは一つだけだった。
『じっくり目を通しても理解出来そうにない』。
その男性教師も同じ意見だったのだろう。
単なる内職と踏んで喰ってかかったら、それ以上のものだったのだから。
彼の中の理解という範囲網から、完全に逸脱している物件に出くわした当惑が、手に取るように分かる。
そんな男性教師からの質問に対して、10秒ほど間を空けて、彼女は
「トラルストキー波動現象と一般相対性理論上における四次元空間での相違値の算出です。」
とだけ呟くと、ますます目を白黒させる男性教師を、また見つめた。

そして、約八秒間の沈黙を、彼女は返答に対する理解を得られたと解釈したのだろう。
再び目線を机上に移し、ノートにペンを走らせる作業に意識を戻した。
呆然と立ち尽くす男性教師は、クラス全員の視線が自分に集中している事に気付き、慌てて授業を再開した。
その日を境に、クラスメート達は彼女について盛んに噂話をし、彼女の一挙動に注目をし始めたのであった。
そんな色々と話題の中心にいた彼女だが、本人は全く意に介さず、
朝の登校から机にかじりつき、終業の合図と共に帰路につく。
毎日同じ行動を一変もさせることなく、繰り返した。

そんな彼女だが、一応自分が学生で学校規則に従事しなければならないことは自覚しているようだ。
講堂で全校集会があれば、皆と同じように列に加わり、
各クラスで何かしら属しなければならない委員会にも参加していた。
ただ、その委員会を決める際のクラス会で、クラスメート達はささやかな驚愕を受けたのだが…。

委員会というものは、必ずしもクラス全員が何かに所属していなくても、別に構わない。
全ての委員会を合わせても約10程。
クラスから各委員会2名を選出すればいいので、自然とクラスの半分は無所属でもいいようになっている。
当然ながら、誰も進んで委員会活動を行おうとはしない。
みんな自分の学業や部活を優先させたいのである。
しかし、最もそのような面倒に無関心そうな僕の隣に座する彼女が、保健委員に立候補していた。

入学式から1ヶ月経ったホームルーム。
かなりだらけた雰囲気の中、委員会に誰が入るかを決める会議が開かれていた。
とりあえず責任感が強い人は、渋々ながら出来るだけ楽そうな委員会を決めた。
また、頼まれると断れない小心者は、周りから無理矢理に押し付けられ、決めていった。
ほとんど自分の厄介事を回避するために他人に擦り付ける、
生け贄大会になっていたので、自ら手を挙げていた彼女に、始め誰も気付かなかった。
たぶん彼女が発する初めての意思表示に、クラスは一瞬ざわめいた。
進行役をしていた学級委員もなんの意味があっての挙手かわからず、思わず確認を入れたくらいだ。
彼女が希望をしたのは、保健委員。

学級委員がその意思表示に相違ないことを示唆すると、彼女は何も言わず、首を縦に振った。
短めのツインテールもゆっくりと揺れる。
そして、要望が受理されるやいなや、再びいつもの作業に戻ったのである。
彼女の突然な行動に興をそがれたのか、その後のホームルームは、違和感を抱いたまま淡々と進んだ。
僕はといえば、今にして思えば隣の彼女に影響されたのだろう。
特に興味がないはずの体育委員に立候補していた。

いつも下ばかり向いている彼女が、大事なところではきちんと自分を示す。
その事にわずかな劣等感を抱いてしまったのだと思う。
…でも、それは別段彼女が責任感が強いわけでも、そういった類の会合に興味があったわけではない。
彼女は自分の目的の為には忠実に行動する性格だったし、
目的を達成するための要素が1%もないことには、全く歯牙にもかけない。
そのことに、僕はいずれ気付くのだった。


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最終更新:2008年03月04日 14:03