「俺は……」 目を覚ますと、そこは見覚えのない場所だった。 白い天井。分厚いカーテンに仕切られ、硬いスプリングのベッドに俺は横たわっていた。 目を覚ましたばっかりで頭がぼんやりしている。何故寝ていたのかは、分からなかった。 「起きたかね」 「ん……」 ぼんやりしていたからか、人の気配に気づかなかった。 横たわったまま横を見ると、そこには、椅子に座った見知らぬ男が居た。 「ここは病院だ。君は倒れていてね。  急いで搬送してきたと、そういうことだ」 「あ……そうなんですか。ありがとうございます」 その人は、鋭い眼差しでじっと俺のことを見ていた。 視線が鋭すぎて、息が詰まる。俺は、ベッドから身を起こした。 男の人は、依然俺のことを見つめている。 頭から、ゆっくりと下まで。まるで品定めをしているようだった。 「あの、なんですか?」 「なに。君は……自分のことが分かるか?」 よく分からないことを聞いてきた。 自分のことが分かるか、って? それはもちろん分かるに決まっている。 俺は――。 「あれ?」 思い出せなかった。ちっとも、さっぱり。 記憶の底を掘り出そうにも、まるで水のようにそれは形を成さなかった。 自分の名前すら、あやふやだ。これはいったい、どうしたことだ? 「やはりか。ここに運び込まれる前に、君の身元を聞いたのだがね。  わからないと、それだけ言って気を失ってしまったのだよ」 「えっと……」 それはつまり、記憶喪失? って奴だろうか。 詳しい病名なんて知ったことじゃなかったけど、 とにかく名前すら思い出せないのは確かだった。 「分からない、みたいです。  自分のことを思い出そうにも、ぜんぜんあやふやで」 漫画で読んだ記憶喪失なんかは、 自分のことを思い出そうとすると頭が痛くなったものだけど、 ちっともそんな様子はなくて、全然リアルじゃなかった。 まるで、記憶喪失なんかなかったんじゃないかと思えるくらい。 あまりにも自然な忘れ方すぎて、めまいがした。 「成る程。記憶喪失、全生活史健忘、という奴かね。  君の身元を示すものは、残念ながら持っていなかったそうでね。  記憶の助けになりそうなことは、何もないんだ」 「そう、ですか」 「とりあえずはここで休むといい。  私も君の身元について少し調べてみよう。  もし、手がかりも掴めず、君が何も思い出せないというなら――。  いや、この話は今しても混乱するだけか」 思い出せないというなら。その言葉だけが俺の心に深く沈みこむ。 少しだけ、憂鬱になった。 「ひとまず、私は帰るとしよう。  また明日、来るとする。その時までに、思い出せているといいな」 「はい。……最後に一つだけ、いいですか?」 キィ、とパイプ椅子が音を立て、男の人は立ち上がった。 去り際に、一つだけどうしても気になって、俺は口を開いた。 「なんで、俺にここまでしてくれるんですか?」 ただ単に、この人の目の前で倒れていただけだというのに。 俺のことを調べてくれるというし、病院に連れてきてくれたのもこの人だろう。 男の人は、なあに、とシニカルな笑みを浮かべて、 「少しばかり、興味があっただけだ」 とだけいって、部屋を去っていった。 彼は、言葉どおり、きっちり一日後にこの病室へやってきた。 「気分はどうかね、少年」 「あ、はい。ええと、気分はいいです。ただ……」 一日経っても、俺の記憶はまったく戻らず。 ただその事実だけが俺の心を締めつけていた。 「みなまで言わなくてもいい。  ふむ……君は、どうやら傷自体は浅いらしくてね。  二、三日中には退院できそうなんだが……」 二、三日。つまり俺は二、三日もすれば、 記憶を失ったまま放り出されるということだろうか? 不安で、しかたがなかった。 「その様子では、大変そうだ。  そこで提案なんだが……記憶が戻るまで、私の家に来ないか?」 「え?」 彼の提案は、驚きだった。この人の、家に? 「私の家には、男手が居なくてな。  どうだ、悪い提案ではないと思うが」 「あ、いや、そんな……いいんですか?」 驚きすぎて、話がよく掴めなかった。 この人の家に行くということは、つまり、その? 「ああ、構わないとも。  それと――万が一、だ。万が一君が記憶を取り戻せなかったとき。  私の、息子になってもらいたくてね」 今度こそ、言葉を失った。 なんで、なんでこの人は――。 「……もし、記憶を取り戻したら?」 「その時は、親戚の家だとでも思って、気軽に我が家を訪ねるといい」 快活に、笑った。この前のような皮肉げな笑いでは、なくて。 「その……よ、よろしくお願いします!  家事だろうが、なんだろうが、がんばりますので!」 だから俺は、この提案に、飛びついた。 「ああ、よろしく頼むよ。  君の名前は、私が考えてもいいかな?」 不安でぽっかり空いた心が、満たされた気がした。