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06

バス停で、彼は黒羽にメールをした。
[すみません。メッセージ読みました。あさっては何時でもOKですか?]
程なくして、返信が来る。
[9-12時、14-17時の範囲で任意]
[2時半くらいから始めましょう。宜しいですか?]
[了解]
同級生相手なのに敬語を使っているのは、彼の癖なのか、黒羽の雰囲気からか。
三木が自ら分析できることはなかった。

それから二日。

彼は図書館のある町民文化会館に入る。
古い建物。錆びて朽ちた金属片。使われていない回転ドア。

彼は重い扉を開け、薄暗い廊下を進む。
図書館。
空いている、と彼は思った。
もっとも、彼はあまりここを訪れることはないので、普段はどうなのかを知らない。
しかし、相対的にはともかく、絶対的には空いていると評価するのが妥当な密度だった。
彼は、辺りを見回しながら、本棚の間を進む。
慣れない場所だが、黒羽の居そうな所はなんとなくわかった。
そして彼は、一番奥の大机に一人座る黒羽を見た。

07

「ようこそ」
「ちは」
彼女は何かの本を読んでいる。
彼は黒羽の向かいに座り、鞄から数IIIの教科書とノートと問題集と問題集の解説を取り出す。
「狭い図書館よね」
突然黒羽が呟いた。
「そう?俺はここしか知らないから何とも。ここもあんな来ねえし」
「私、図書館って言うのは最低でもこの80倍は本が必要だと思うわ」
「80倍?それは多すぎなんじゃない」
「全然多くなんてない。ただでさえ情報化の進展のおかげでこういう建物には存在価値がなくなっているというのに…」
「インターネットがあれば図書館なんて要らねぇってことか?」
「将来的には不要になることを見越して今無駄なエナジィを節約しているのかしら?だとしたら賢い判断かもね」
「…………」
「まぁいいわ。読みたい本は取り寄せさせたし」
彼女は一度閉じた本をまた開いて読み始めようとする。
「え、読むの?今から?」
「駄目なの?ここは図書館、英語で言うとライブラリィよ」
「英語で言わなくてもいいけど」
「ドイツ語ではビブリオテーク」
「何で知ってんだよそんなこと……」
「さっき調べたから」
「何のために……」
彼女は再び本に目を落とす。
彼は教科書を開き、勉強を開始した。

「って何でだよ、おかしいだろ。あぶねー、変に誤魔化されるところだった」
「今の流れ、ありがちね。ポジティヴに言えば王道、ネガティヴに言えば陳腐」
「何言ってんだよ」
「ちょっとだけメタなこと。でもあなたに向けて言ったとするのが一般的な解釈」
「まぁいい。今日は勉強会だっつーのに、なんでお前だけ読書タイムなんだよ」
「あなただけ勉強タイムともいえるわ。私は別に少数派ではないわよ」
「論点がずれてるぞ。俺もお前が少数派だとは言ってない。今日は勉強会だってってんだよ。俺がそう定義した」
「そう。でも私は特に勉強することはないわ。何か質問があったらその都度言って」
「なんだよそれ…」
「嫌なら帰るわ。家のほうが集中できるもの」
「いや、居てください」
彼女は再び本に目を落とす。
彼は教科書を開き、勉強を開始した。

08

彼が黙って勉強していたのはほんの数分だった。
「なぁ、黒羽、ここちょっと教えて」
「うるさいっ」
「………」
黒羽は熱心に本を読んでいる。
殆ど体は動かない、かと思えば、高速で視線が動いたり、一人で納得するようにうなずいたりする。
授業の際も時折見ることの出来る、「学習している」黒羽だ。

その挙動はかなり妖しく、一般的な「可愛い」の概念からは外れているかもしれないが、三木はその状態の黒羽が好きだ。
最も人間的で美しい姿だ、と彼は思う。再び動かなくなった黒羽に彼は釘付けになった。

さらに数分後。
「ところで、何だっけ?何か用?」
黒羽は学習モードを解除したようだ。
「あぁ、本の内容は理解できた?」
「大体ね。かなり興味深い手法だったわ。まぁその話はまた後で。何がわからないの?」
「この問題なんだけど、どうしてここで四角形と三角形に分割してんの?そうしなきゃなんないの?」
「ちょっと待って……んと、これは、証明問題だから左辺の式がこの部分の面積と等しくなって……」
黒羽の解説はわかりやすい。
最強の数学教師として君臨する有馬先生に勝るとも劣らない教え方。
そう彼は思う。
「聞いてる?」
「聞いてる」
「ならいいの」
「……いやー、おまえってすげーよな。なんでそんなに教科書の内容を理解できんの?」
「教わったから」
「誰に?」
「有馬先生」
「いつ?」
「授業で」
「それは俺も出てるけどさ、じゃあなんでこんなに差が出るんだよ」
「理解力の差」
「はっきり言うなよ……」
「婉曲表現を用いても事実は変わらない」

09

1時間後。
「いやー、疲れた。頭が疲れた。休憩」
「スフィア」
「何?」
「なんでもない。それよりこれを」
そう言って黒羽は読んでいた本を閉じ、差し出す。
「これ、読みなさい」
「なんで?今?」
「あなた理系でしょ?絶対読んでおくべきだと思うわ。別に今じゃなくていいわよ」
「これは……何の本?『複雑系』って何?」
「カオスとかフラクタルとか」
「つまりどういうことさ」
「単純なルールが複雑な結果を示す。初期値の微小な相違が結果に大きく影響する。それがカオス。
自然界に多く見られる自己相似。無限に続く縮小された自分自身。それがフラクタル」
「はぁ」
「他にもセルラ・オートマトンから待ち行列理論・ゲーム理論まで、なかなか読みごたえがあるわよ。ぞくぞくするよねこういうの」
「いや、俺は別に…」
「何言ってるの、あなたの専門分野でしょ?読んでおくように」
「はぁ…」
硬派な表紙。シンプルな威圧感。確かに、俺の学びたい専門分野に近そうだが…
それにしても、と三木は思う。
よくもまぁこんな難しそうな本を選んできて読もうとするものだ。俺一人だったら絶対手をつけなかったな。
いい機会だ、読んでみるか。というか黒羽に薦められているのに読まないなどという選択肢は無いだろう。
こんなに接触を取ってもらえるなんて予想以上だ。
「にやにやしないで………休憩が終わったなら早く再開しなさいよ」
休憩を終わらせるつもりは毛頭無かったが、黒羽が睨んできたので彼は再び問題集を開いた。

10

そしてまた1時間後。
「あー疲れたー。もう4時半か。いやー、今日は勉強した。半年分くらいした」
「それでも受験生?馬鹿じゃないの?こんなの普通は勉強したうちに入らないわよ」
「うるさいなぁ。おまえなんもやってねーじゃんかよ」
「本を読んでいたけど?」
「だから、勉強してねーじゃん」
「そう?相当の知識を吸収したと思うけど。あなたの定義ではこれは勉強に入らないの?」
「いや、勉強は勉強だけどさ………受験勉強じゃねーじゃん。余裕だよな」
「そんなものはどうでもいいもの」
「どうでもいいって……」
「それで?今日はこれで終わるの?」
「あぁ、もうそろそろ帰ろうかな。大体は分かったし。ありがとな」
「じゃあ帰るわよ」
「あ、あぁ……。じゃあな」
黒羽は、読んでいた本を丁重に鞄に仕舞い、立ち上がって歩き去る。
「じゃあね、また明日」

「ちょっと、黒羽」
黒羽の足が止まる。
「何?」
「あのさ、一昨日のことだけど…」
「?」
「ごめんな、時間までに行けなくて。あのさ、いや、恥ずかしながらメモのことを忘れてて」
「別にいいの。私はその日、いずれにせよ15時半までは教室に居る必要があった。私に迷惑はかけていない」
「でも遅れた俺のためにメモまで用意してくれた。俺が来ることがどうして分かった?」
「馬鹿ね、あなたが時間外に教室に来たときに『備えて』おいただけよ。別に来ると思ってたわけじゃないわ。
例外処理はプログラマの基本でしょ」
「え?黒羽ってプログラマなの?」
「広義では誰もがプログラマよ。じゃあね」