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 人には誰にも替えられない「固有」な部分がある、これを人間の固有性と呼ぶ。この固有性は本来、固有であるゆえ、交換を拒否する、すなわち、交換不可能である。言い換えれば異質である。異質であるもの同士は本来、交流できない。
 そこで交流できるように、言語が発生する。このような意味で言語はとても道具的ではある。ただ、問題はここから、言語の導入によって、「他者」の審級が導入されると同時に、本来交換不可能なものを、一気に交換可能なものへと落としてしまった。
 「他者」の審級を導入するということは、自らのうちに、異質な他者を住まわせること。しかも、この「他者」は何か具体的な像をもたない。ラカンの用語でいえば、鏡像ってことになる。「他者」でありながらも、「自己」の一部とみなしてしまう。ここでは、決定的に、主体と呼ばれるものが二つに分裂する。一つは、常に「今」を生きる自己、もうひとつは、人が知覚できないレベルの、ほんのわずかな、光の反射による時間的に遅れてやってくる鏡の像のように、常に記憶に刻まれた「今」を生きる自己の像である。(それぞれ現自己、像自己と呼ぼう)。
 思考と行為をするのは常に現自己のほうである。思考は、その性質上、記憶によって立つ限り、行為を行なう「今」を捕えられない。いや、こういったほうが正確かもしれない。思考とはそもそも一つの行為であり、意識は常に、思考という行為の痕跡を追っているだけであると。
 一般的に、人が思考という行為を行うとき、意識的にというよりも、本質は無意識的である。だが、無意識的だからといって、言語と関係ないわけではない。むしろ、表面的な言語のとる形体、音声だろうが、表記だろうが、関係なく、よりももっと言語的で、シンボリックな構造体をその本質としている。実際人間が、自分で思考している、あるいは意志決定していると思い込んでいる部分は、この思考が残した痕跡、それもまた記憶の一種だが、を言語化しているにすぎない。
 だが、ここでいう意識とは何かは、まだはっきりしない。意識とは、記憶なのか?いや、違う、記憶をいくらかき集めて意識にならない。(攻機では、記憶をかき集めてゴーストは甦らないということが繰り返し出てきた)おそらく、意識は、それに含まれれる属性をとことん取り除くと、 純粋意識 とよばれうるようなものは、面積をもたない点のような、実体をもたないような形式である。