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 (製作中)提案者:発起人の友人
  たった一人 、森の中で遭難し、遠くから不気味な音まで聞こえてくるとなると、ションベンちびりそうなほど恐ろしい。だけど、孤独に震えて朝が来るのを待つしかないのだろうか。本当は、足元の松明を拾って、その音源らしきものさえ確認しに行ければ、まだ不安は和らぐはずなのだが・・・そんな勇気は持ち合わせていない。だから、息を殺して周りに溶け込み、安全祈願のお守りでも握り締めて、この場をやり過ごすことにしよう。あぁ、なんで森なんかに入ってしまったのだろう。
 携帯電話どころか、自動車すら存在しないくらい昔、それこそ村社会がまだ当たり前だった頃では、現代とは違い、こんな遭難者は数多く存在したのかも知れない。
 けれども、似た様な状況は現代でも多くの人々が経験している。私達は近代化に伴って、村という共同体の掟から開放され、 たった一人 の存在、個人となった。自由を手にした反面、自己決定自己責任なんて重圧さえも背負い込むことになってしまった。


  一望監視施設 寮 曜日制 

admin 2008/2/13
話合いの内容をちゃんとまとめて乗せてから、自分の見解を述べるべし。もちろん、まとめる段階ですでに自分の見解が入り込むことは承知で。
ただその人間社会の原始的な時代への想像は内容につなげることができる。

  • 話し合いの内容+後付説明
集落という言葉に代表されるような、移動制限のある共同体は、その移動制限性がコミュニティーの形成に大きな役割を果たしてきた。基本的には、従来の共同体から移動することは、命にかかわる危険を冒すことであり、すなわち、ほぼ脱出不可能である。その中では、必然的に共同性を形成されていくことになる。なぜなら、共同性を拒否することは、コミュニティーからの離反を意味し、結果として、命の危険に晒されることになるからである。共同体全体からしても、共同性が失われれば、大きな力を形成しえず、全体として自然の脅威に対抗しえなくなるので、そのような者の存在を容認することができない。

このとき、共同体の成員とっての他者は自然そのものであり、未知なるものの他者は恩恵も恐怖ももたらす。その他者へは文字通り「畏怖」の念があった。

しかし、近代に入ってから、このような共同体が、都市化、産業の分業化、専門化に伴い、解体されていくことになる。このことは、科学技術の進歩によって、人間が自然の脅威からの開放と移動手段の進歩による移動範囲の飛躍的な拡大によるものである。科学によってその仕組みが解明されていく自然はもはや他者ではなくなり、人間が運用できる 資源 となるのである。

このことは、人々を伝統なるものの「束縛」から解放し、個人(individual)なるものを誕生させ、孤立化させる。自然を解明した人間は、かつて自然へ向けた他者の目線を、今度は人間自身に向けていくことになる。このことが、フロイトに「無意識」を発見させ、デリダに「エクリチュール」を発見させる。科学の中心が自然科学から、脳科学、遺伝学、生物学、生命倫理、認識論、心理学へと転換する。

しかも、重要なのは、人間は自分がわからなくなると同時に、すぐ隣に物理的に存在する他人もわからなくなるということである。つまり、かつて人間/自然というような引かれた境界線が、今度は、自分/他人というふうに移り変わってきた。

脅威となった他人(他者)に対して、過剰に敏感になり、その関係は不安定になる。このことが、最近のメイン、サブカルチャーを通底して、心理描写される主人公の変わらない設定である。もちろん、これに対して、ノスタルジックにかつての関係を回顧する内容のものも存在するが、それは単なる上の裏返しに過ぎない。若者の倫理問題や、その「惨状」をみて、昔がよかった、今の若者がわからんと連呼するマスコミもこの流れに乗っかってると言えるだろう。

この不安定に耐えられなくなると、人は再びコミュニティーを求め始める。そこに乗っかるように、インターネットの掲示板、ネットゲーム、MIXI、ブログ、そして携帯が急速に発展していくことになる。そこで行われているのは、仲間内「だけ」のコミュニティーの結成により、「他人」を排除し、安定した関係の中で、心地よく居続けることである。

でも、その実態は、気持ち悪いくらいの馴れ合いがあり、事なかれ主義的な表面的平和、安定である。表面的なものは所詮表面的でしかなく、時間が立てば、差異が表面化して、コミュニティーが解体して、新たなコミュニティーが結成する。

しかし、思うに、はじめから、共同体(コミュニティー)というのは、そういうものだったのではないかということである。つまり、共同体は、「他者」という虚像を外側に作り、追いやることで、自らの内側の安定をもたらし、異議ある声を内部規律で抑圧してしまう。そこで形成されていくのが、共同性という名ばかりの圧政ではないだろうか。

だとすれば、我々が今なすべきことは、 タフに、そして辛抱強く他者と向かい合い、とことんまで差異を確認することではないだろうか。