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-世界史的事件の一つが、10代向けのメディアミックスの企画に先取りされてしまうような事態(P20)&br()現実と虚構を語る言葉が近接、あいまい -イディオロギーや理念によって押さえ込めないような暴力(P18)&br()ナマの生から発生する暴力?もしこのような暴力が存在するなら、それはニーチェのいう「力への意思」と近いのではないか?つまり、過密に張り巡らされるイディオロギーの網からの逃走として見れるのではないか -『マクドナルド化する社会』ジョージ・リッツア&br()環境管理を通して間接的に消費者の行動を管理 <これはちょっと面白い -死の管理から生の管理へ(P36)&br()ギロチンやピストルによる管理からイディオロギーによる行動コントロールだとすれば、現在は死の管理へ(=セキュリティー化)と生の管理(=便利化)が共存する管理か 少なくともこれは2層にわけて考える必要がある -旧来型の権力と今新しく立ち上がりつつある権力との関係&br()旧来型=規律訓練型 新しい権力=アーキテクチャ 古典的権力が限界まで突き詰めたときのパラドクシカルな反転◎  -カフカの『掟の門』と「内容なき法」、法という形式 -「環境化」=「所与条件化」&br()これ以外は考えらないようになること(固有化)することによって、それ以外を思考しなくなること、所与条件を当然だと、思考の土台へ、無意識かしてしまう、あるいは考えて仕方ないことと化してしまう。 -環境に動物的に従う=理由・大義を問わない(P49)&br()似たような論争:ゲームのルール自体への問いvsゲームのルールは決められてるんだから、従うか去るかしかない -専門技術に対する依存が、市民全員による透明で公正な議論が不可能→不透明化→わかりやすくしてくれ!という要求→これにマスコミが答える(古典的な枠組み)→わかった気になる、でも釈然としない -主体の刻印(痕跡)の(非)交換可能性への想像力&br()交換不可能な主体性に立脚しながらも、その交換可能性、つまり交換のシステムへの参与ってことか。 -単独性-固有性(P72)&br()単独性と固有性の違いははっきりしない -「共感」論理の危うさ&br()共感できるのは、限界がある。共感を唱えすぎると、共感できない者への排除もその裏で同時に強まる。ならば、「共感できないやつを救おう!」じゃないか(大澤) -あらゆる属性を剥奪した固有名はもはや固有名という形式でしかない!(P116)&br()デリダの脱構築を援用すれば、こうだ。固有名というそのただ中に固有でない多くの属性がすでに含まれている。いや、それどころか、その条件ですらある!ならば、記述に余るもの(剰余、余白)みたいな部分に固有性が含まれているのではないか! -「象徴界」がないことはありえない!(斎藤環)(P133) -アメリカ型の動物性(P138)&br()⇒連想:「貴国にはコントロールの聞かないカリスマ指導者はいらない、ただ従順な消費者さえいればそれでいい」(攻機2ラストシーン、久世がアメリカのスパイに殺される直前の、スパイが言ったセリフ) -技術の発達によって、確定記述を際限なく積み上げることで固有性へたどり着いて得しまう(東)(P190)&br()これはちょっとおかしい。技術の発達でできる・できないを決める話じゃないはず。技術の進歩が引き起こすのは量の増大でしかない、質は技術云々と関係ない。 -自分は、他者にとって何?(P194)&br()ってのは自分についての属性記述と同時にすでに始まってるのではないか? -「見られる」=「規制される」=「規範化される」から逃れたいがために動物化が生じた。⇒第三者の審級の後退⇒見られてないかもしれないという不安から、自分を曝け出そうとする(ブログ、個人HP)(P205) -権力の先を行く そういう欲望を最後まで徹底して突き詰めるような解決策◎(P210) -具有性は「他者」への共感をも可能にする!◎(P248)

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