少し前に亡くなった精神科医・土居健朗氏の著作で、ロングセラーとなった『「甘え」の構造』という本があります。初版が昭和46年ですから、40年近く前の本ですが、この本からインスパイアされたことを少しまとめたいと思います。

土居先生は、アメリカに留学した際に、アメリカ人は「相手を慮ることをしない」ということに違和感を覚えました。それをたどっていくと、どうやらアメリカ人は「甘える」ということをせず、その「甘える」という言葉は英語には無いらしい、ということに気づきました。そしてアメリカ人との違いをひとつのきっかけとして、アメリカ人にはなくて日本人にはあった「甘え」というものを考えるようになりました。そしてそれは、欧米の「個人主義」と日本的な「甘え」との違いであると考えました。

詳しい内容については是非読んでいただきたいのですが、どうも日本では、欧米から見ると「受身的愛情希求=甘え」と考えれるような言動や考え方を、日本人は「甘え」として認識しておらず、むしろ社会を円滑にするための仕組みとして機能するものとして、無意識に利用していたということに思えます。

それは、「親子」などの身近な関係だけではなく、たとえばいわゆる「相互扶助」の考え方や、財閥・学閥などのつながりの中には、欧米にはない「甘え」の構造があり、それが日本の社会においてとても重要な要素として機能していました。但しそれは日本においては「甘え」として認識されていないものでした。そしてそれは、欧米の「個人主義」とはまったく異なる文化でした。

明治維新以降、欧米から科学をはじめ、知識や社会の仕組みなど、いろいろなものが輸入されはじめましたが、おそらく「個人主義」という文化の「本質」は時間をかけてじわじわと浸透していき、日本に昔からあった「甘え」をじわじわと排除していったと思われます。その際日本人は「甘え」に対する罪悪感の意識と、無意識の部分で「甘えへの渇望」を同時に形成していったのだと思います。

そして、日本人にとって便利だった「甘え」は、欧米の個人主義の輸入よって「恥」になり、公の場ではどんどん甘えることが許されなくなった一方で、家庭や友人などのプライベートな場で残存している「甘え」の構造が、日本人のパーソナリティを引き裂き、生きづらさを大きくしているとは言えないでしょうか。

もしそうであれば、日本人は「個人主義」と「甘え」という社会原理との整合性を考えるか、もしくは「個人主義」と「甘え」のどちらかを捨てるかしないと、人々はアイデンティティを失ったままで、社会は安定しないでしょう。そしてそれが、これからの日本の考えるべきとても重要なことのひとつのような気がします。



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最終更新:2014年08月02日 23:01