ホンマタカシ ニュー・ドキュメンタリー



  • Takashi Homma : New Documentary
  • 会期:2011年4月9日[土]─ 6月26日[日]
  • 会場:東京オペラシティ アートギャラリー
  • [巡回情報]
  • 2011年1月8日[土]─ 3月21日[月・祝]
  • 金沢21世紀美術館 http://www.kanazawa21.jp/
  • 2012年7月15日[日]─ 9月23日[日]
  • 丸亀市猪熊弦一郎現代美術館 http://mimoca.org/



吉田健一は「東京の昔」で昭和40年代頃から見た昭和初期の東京について書いていて、すでにその頃の「今」は銀座が銀座でなくなっているといった表現をしていて、椹木野衣はホンマタカシ展の図録で時代は郊外化を避けられず、むしろ彼の写真はそれを絶命的に行っていると書いている。どちらも面白い。

両者は興味深く共鳴している。その時代を生きるものにとって東京は常に郊外化(=写真へ撮る必要のない被写体化)の進む街であり、それは昭和初期にあるピークを向かえていたとも見える。成熟した文明が、到達性ゆえにその先を危ぶんで見る視点は時代を超えてあり、無個性化という郊外化は、経済の規模に比例して悪化するようだ。

確かに東京のボリュームは大きすぎて、ひとつの場所と認識できないばかりか、細分化した一部を楽しむには政治的に一体度が高い。もはや行きつけの飲み屋で感じる程度にしか「人の生活」は感じられない。そしてホンマタカシの提示する既視感には、僕らの原風景として郊外化が馴染みすぎていることをしめす。乾いた雰囲気や、被写体との距離感も今の時代を露呈していると暴く以前に自然である。

シルクスクリーンや集積した本、または絵画など、さまざまな手法やメディアを用いた最新作を通じて、「見ることの意味」、「写真とはいったい何か」へ迫る態度はオルタナティブを提示する現代アートへのスタンダードな対応だと思う。だから余計にそれは狡猾で不要とも感じてしまう。果たして写真が現代アートのステージへ上がるとき、そのような自らを「ずらし続ける」立場は必要なのだろうか。

野口里佳やホンマタカシが進む方向は、批評的だけどそれ以上の強度を感じられない気もした。2011.03.30k.m






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最終更新:2011年04月27日 00:22