Françoise Hardy @ wiki

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  • 『私の人生』 …… アルディ自身による誕生からデビュー直前までの自伝的エッセイ


年表


西暦 年齢
1944     0  1月17日21時30分、フランスのパリにてマドレーヌ・アルディ (Madeleine Hardy) (当時24歳)の長女フランソワーズ・マドレーヌ・アルディ (Françoise Madeleine Hardy) として誕生(“アルディ”は母方の姓)。父親は別に家庭を築いていたノルマンディーの名家出身の中年男性。彼はアルディ家を訪れることは滅多になく、マドレーヌは会計のアシスタントをしながら女手一つでフランソワーズと翌年誕生したミシェール (Michèle) の娘二人を育て上げる。
1959 15 第1学級在籍中にバカロレア(高校卒業資格試験兼大学入学資格試験)の一次試験に合格。お祝いとして珍しく顔を出した父親からギターをプレゼントされる。
1960 16 一般より2歳早くバカロレアの二次試験に最低ラインの « assez bien » の評価で合格。9月の新学期、母親の希望でパリ政治学院 (Sciences Po) に登録するが2週間で退学、ドイツ語の学士号 (license) を取得するため(旧)パリ大学文学部(ソルボンヌ (Sorbonne))に再登録。その後、モカ・クラブ等の昼のステージで歌い始め、プロのシンガーになる意志を固める。
1961 17 ● 2月、雑誌の広告記事を見て、大手レコード会社パテ・マルコニー (Pathé-Marconi) のオーディションを受ける。
● これと相前後して、戦前ブロードウェイやハリウッドで女優としても活躍した経験のある歌手兼作曲家のミレーユ (Mireille) が校長を務める音楽学校 Petit Conservatoire de la Chanson に入学、歌のレッスンを受ける(2年間在籍)。
● ソルボンヌで一年目の予備課程 (propé) を修了した夏頃、ヴォーグ・レコード (Disques Vogue) の一回目のオーディションを受ける。リズムに合わせて歌えなかったことから一旦難色を示されるが、才能に惚れ込んだエンジニアの計らいで個人レッスンを受け、二回目のオーディションに備える。
● 11月14日、ヴォーグでの二回目のオーディションを受ける。この時同席していたヴォーグのA&Rマン (directeur artistique) であるジャック・ウォルソン (Jacques Wolfsohn) に認められ、同日、1年契約を結ぶ。ロイヤリティは総売上の4%。マネージャーには、当時ペトゥラ・クラーク (Petula Clark) の夫だったクロード・ウォルフ (Claude Wolff) が就く。
1962 18 ● 4月25日午後、ファーストEP用に4曲を初レコーディング。
● 6月、同EPリリース。
● 同月、SLC誌のフォト・セッションで当時まだ無名だったフォトグラファー、ジャン=マリー・ペリエ (Jean-Marie Périer) と知り合う…翌年には公に交際を始める。
● 10月30日、大統領直接選挙制の是非を巡る国民投票の開票結果を報道するTV番組で、インターバルの歌のコーナーに出演、« Tous les garçons et les filles » を歌う(但し、リップシンク)。この出演で一躍脚光を浴び、同曲を収録したファーストEPが年末までに50万枚のセールスを記録
● 11月、ヴォーグとの契約を更改。ロイヤリティは総売上の5%に。
● 12月(10月説もあり)、ファースト・アルバム « TOUS LES GARÇONS ET LES FILLES » をリリース。
● 12月11日、ナンシーにて行われたショーで初の本格的ステージ・パフォーマンスを行う。
« Tous les garçons et les filles » がSLCヒット・パレード12月度で最高5位を記録。
1963 19 « C'est à l'amour auquel je pense » がSLCヒット・パレード2月度で最高9位を記録。
● 3月、ファースト・アルバムがシャルル・クロ・アカデミー (Académie Charles-Cros) のディスク大賞を受賞。
● 3月23日、ロンドンで行われたユーロヴィジョン・ソング・コンテスト (Concours Eurovision de la Chanson) にモナコ代表として出場。« L'Amour s'en va » を歌い、第5位になる。
« L'Amour s'en va » がSLCヒット・パレード4月度で最高7位を記録。
« Qui aime-t-il vraiment » がSLCヒット・パレード8月度で最高7位を記録。
● 秋、セカンド・アルバム « LE PREMIER BOHNEUR DU JOUR » をリリース。
● 11月7日、オランピア劇場 (L'Olympia)での初公演初日…リシャール・アントニー (Richard Anthony) とのダブル・ビル。
● また、この年、ロジェ・ヴァディム (Roger Vadim)監督の映画『スエーデンの城 (Château en Suède)』で映画デビュー(フランスでは、10月にプレミア、11月に一般公開)。
1964 20 « J'aurai voulu » がSLCヒット・パレード1月度で9位を記録。
● 2月、ロンドンにて初レコーディング。TV出演も行い、イギリス・デビューを果たす。
« Pourtant tu m'aimes » がSLCヒット・パレード6月度で8位を記録。
● 6月、イギリスで、ファースト・シングル « Tous les garçons et les filles » 、同時にファーストEP « C'est FAB » がリリース。前者は7月4日付Record Retailerシングル・チャートで最高38位、後者は7月25日付同EPチャートで最高5位を記録。
● 8月、ボブ・ディラン (Bob Dylan) が同月リリースしたアルバム『アナザー・サイド・オブ・ボブ・ディラン (Another Side Of Bob Dylan)』 のライナーにアルディに捧げる詩を載せる…for francoise hardy at the seine's edge...。
● 秋、サード・アルバム « MON AMIE LA ROSE » をリリース。
1965 21 ● 1月、イギリスで « Et même » が1月16日付Record Retailerシングル・チャートで最高31位を記録。
« Je veux qu'il revienne » がSLCヒット・パレード1月度で最高8位を記録。
● 5月、日本でファースト・シングル『青春のブルース (Le Premier Bonheur du jour)』リリース。
● 6月、イギリスで « All Over The World » が6月5日付Record Retailerシングル・チャートで最高16位を記録。
« Le Temps des souvenirs » がSLCヒット・パレード8月度で最高6位を記録。
● 9月、日本でセカンド・シングル『バラのほほえみ (Mon amie la rose)』リリース。
● 秋、4枚目のアルバム « CE PETIT CŒUR » をリリース。
« L'Amitié » がSLCヒット・パレード10月度で最高6位を記録。
● この年、クライヴ・ドナー (Clive Donner) 監督のアメリカ・フランス合作映画『何かいいことないか子猫チャン (What's New, Pussycat?)』(6月、アメリカ公開)、エンツォ・トラパーニ (Enzo Trapani) 監督のイタリア映画 « Altissima pressione » (9月、イタリア公開)に出演。
1966 22 ● 1月27~29日、イタリアのサン・レモ音楽祭 (Festival di Sanremo)}に出場。« Parlami di te » を歌う。
● 5月24日、映画『グラン・プリ』の撮影を抜け出し、ボブ・ディランのオランピア公演を観に行く。ドラッグのため体調不良だったディランは、ファースト・セット終了後、彼女に会えなければセカンド・セットはやらないと駄々をこねたため、急遽バックステージで面会。
« La Maison où j'ai grandi » がSLCヒット・パレード6月度で最高2位を記録。
● 夏、ジャン=マリーと破局。
● 秋、5枚目のオリジナル・アルバム « LA MAISON OÙ J'AI GRANDI » をリリース。
« Rendez-vous d'automne » がSLCヒット・パレード11月度で最高7位を記録。
● この年、ジャン=ダニエル・ポレ (Jean-Daniel Pollet) 監督のフランス映画 « Une balle au coeur » (2月、フランス公開)、ジャン=リュック・ゴダール (Jean-Luc Godard) 監督のフランス映画『男性・女性 (Masculin féminin: 15 faits précis)』(3月、フランス公開)、ジョン・フランケンハイマー (John Frankenheimer) 監督のアメリカ映画『グラン・プリ (Grand Prix)』(12月、アメリカ公開)に出演。
1967 23 ● 2月、ロンドンのサヴォイ・クラブでコンサート。
● 6月、カナダでコンサート・ツアー。
« Voilà » がSLCヒット・パレード7月度で5位を記録。
● 冬、自身が設立したレーベル、アスパラガス (Asparagus) からの初EP « Des Ronds dans l'eau » および初アルバム « MA JEUNESSE FOUT LE CAMP » をリリース…フランスでのディストリビュートは引き続きヴォーグ。
● この年、ジャック・デュトロン (Jacques Dutronc) と交際を始める。
1968 24 « Des Ronds dans l'eau » がSLCヒット・パレード1月度で最高5位を記録。
● 1月~2月、ヨーロッパ各地でTV出演、カナダ・モントリオール訪問、イギリスで大学巡りのツアー。
● 3月、南アフリカ・ツアー。
● 4月~5月、ロンドン、サヴォイ・クラブでコンサート。ステージでパコ・ラバンの衣装を着て14曲を歌う。
● 5月、ザイール・キンシャサでコンサート。
● この直後、ツアー活動の中止を表明。
« Je ne sais pas ce que je veux » がSLCヒット・パレード7月度で最高9位を記録。
● 9月、ブラジル・リオデジャネイロで開催された Festival Internacional da Canção で審査員を務めると同時に新曲 « A quoi ça sert » を歌う。
● 冬、7枚目のオリジナル・アルバム « COMMENT TE DIRE ADIEU ? » をリリース。
1969 25 « Comment te dire adieu » がSLCヒット・パレード3月度で最高3位を記録。
● ヴォーグとの間で訴訟になり、アスパラガスを閉鎖。新たなレーベル、ヒポポタム (Hypopotam) を設立。
1970 26 ヒポポタムからの初アルバム(オリジナル・アルバムとしては通算8枚目) 『アルディのおとぎ話(SOLEIL)』 » をリリース…ディストリビュートはソノプレス (Sonopresse)。
1971 27 ブラジル人女性ギタリスト、トゥーカ (Tuca) を迎えた9枚目のオリジナル・アルバム 『私の詩集 (LA QUESTION)』 をリリース。
1972 28 最後のロンドン・レコーディングによるアルバム 『私生活 (ET SI JE M'EN VAIS AVANT TOI)』 および英語アルバム 『私の好きな歌 (IF YOU LISTEN)』 をリリース。これをもってヒポポタムを閉鎖。
1973 29 ● 6月16日、ジャック・デュトロンとの間に長男トマ (Thomas) 誕生。
● 11月、WEAに移籍、アルバム 『私小説 (MESSAGE PERSONNEL)』 をリリース。ヒット・パレードにカムバック。
● この年、日本でCBSソニー(当時)がヒポポタム期以降のディストリビュート権を獲得。コンピレーション・アルバム『フランソワーズ (Françoise)』とシングル『さよならを教えて (Comment te dire adieu)』 がリリースされ、後者は洋楽TOP10に入る大ヒットを記録。初来日を果たす。
1974 30 アルバム 『夜のフランソワーズ (ENTR'ACTE)』 をリリース。

※ 以下、作成準備中……


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