小栗上野介

小栗上野介忠順 (おぐりこうずけのすけただまさ)

(剛太郎・又一・忠順)

(文政10年(1827)2月12日~慶応4年(1868)閏4月6日)


某埋蔵金企画のためか、20年ほど前から急に知名度がアップしてきた感がある。
昨今のドラマなどの中では「勝海舟のライバル」的な扱いをされることも多い彼だが、「(ライバルと名乗るのが)勝あたりでは役不足」という声もまた多い人物である。
数々の業績の奥にある、彼のほんとうの姿とはいったいどんなものだったのか。



■ 生い立ち ■

文政10年2月12日、幕臣小栗忠高の嫡男として駿河台に生まれる。小栗家の先祖は三河の頃から徳川家康に仕えていた。「又も一番鑓」と武勇を称され「又一」の名を貰った小栗忠政直系の子孫であり、以下嫡男はみなこの「又一」を名乗る。家禄は2500石だったが、万延元年の遣米使節においての働きにより200石加増され2700石となった。甲賀坂に面する屋敷は、瀧川播磨守邸の隣にある(現在はYWCAの建物がある)。

天保6年(1835)10月1日、自邸の長屋で私塾を開いていた安積艮斎のもとに入門、儒学を学ぶ。
その半年ほど前には瀧川播磨守も入門している。
後年、甥(血のつながりはない)である蜷川新(学者・格闘家武蔵のひいじいちゃん……顔が似てるんだコレが)によると、小栗は13歳頃から煙草をふかしながら大人たちと対等に討論をしていたような子供だったという。その態度を気に入って、播州林田藩主建部政醇が娘を嫁がせることを決めたとか。当時から自分の思ったことをハッキリと言う性格だった。
(この辺ちょっとウロオボエなので、興味のある方は自分で確認してくだされ)


■ お役については辞めついては辞め ■


安政4年  書院番進物番より使番
安政6年  目付(外国係)
      米国行諸太夫
万延元年  外国奉行 →文久元年 辞す
文久2年  書院番頭
      勘定奉行勝手方
      町奉行(兼帯)
      勘定奉行再役勝手掛 歩兵奉行兼帯 →文久3年 辞す
文久3年  陸軍奉行並 → 同年 御役御免
元治元年  勘定奉行勝手掛
      軍艦奉行  →元治2年 御役御免
慶応元年 勘定奉行
慶応2年  海軍奉行並 兼帯 → 同年御役御免
慶応3年  陸軍奉行並 兼帯
慶応4年  御役御免


……もう、書く方が疲れる。


■ 開国派・主戦派の急先鋒として ■

外国奉行、陸軍奉行、勘定奉行など、数々の要職を歴任。安政6年の世界一周メンバーのひとりとしていち早く「世界」を肌で感じて帰ってきたあとは、横須賀製鉄所の建設、軍制改革(←伝習隊創設はその一環)、仏語伝習所開設、商社の設立、郡県制の提唱……などなど、彼の功績は枚挙にいとまがない。日本全土に攘夷の嵐が吹き荒れている最中から終始一貫開国を主張。駿河台の自宅の敷地内に日本初の洋館を作ったり、領地の青年を呼び寄せフランス語や洋学などを学ばせたともいう(本人も英語を学んでいた形跡も見え隠れ)。柔術、剣術、馬術に優れ、登城する際は駕籠ではなくアメリカで購入したアラブ種の馬に乗っていた。

幕府の手による日本の構造改革を主張し、薩摩藩邸焼き討ちには彼も関わっていたことがわかっている。
小栗の言葉に 「病の癒ゆべからざるを知りて薬せざるは孝子の所為にあらず。国(幕府)亡び、身倒るるまでは公事に鞅掌するこそ、真の武士なれ」 というものがあるが、江戸に在住する者たちと上方にいる慶喜らの間には、心情の面において相当の温度差があったものと思われる。


鳥羽伏見戦の後も徹底抗戦を主張。1月15日に職を罷免されたあとは土着願いを出し、権田村へ移住。閏4月6日に官軍に捕らえられ断首された。大隈重信(妻が忠順のいとこ)は後年、「小栗は謀殺される運命にあった。なぜなら明治政府の近代化政策は、そっくり小栗のそれを模倣したものだから」と語ったと伝えられている。




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■最終更新日時: 2009年05月16日 (土) 17時27分29秒