瀧川充太郎

瀧川充太郎具綏 (たきがわみつたろうともやす)

(嘉永3年(1850)2月22日~明治10年(1877)5月31日)


この名前を聞いて「ああ、あの」と言えるのは、よほどの歴史マニアか幕末同人かのどちらかである(笑)。
慶応4年4月、江戸城明渡しに際して決行された幕臣たちの大脱走に遅れて参加。
その後大鳥圭介率いる伝習第二大隊に属し、数多くの戦闘で「猛将」の名をほしいままにしたこの男。
「荒くれ者」のイメージが終始つきまとう彼だが、いったいどんな人物だったのか……?



■ バックグラウンド ■

戊辰・己巳役について書かれた書物は数あれど、滝川充太郎がナニモノであったのかを語る資料はけっこう少ない。たいがい戦ってるだけなので、この男。
「明治過去帳」という本に、「萬朝報」(1)からの抜粋というかたちで充太郎のことが載っている。「幕臣滝川陶哉の長男」と記載されているが、「滝川陶哉」なる幕臣の記録は「滝川兄弟の父」として明治以降に登場するのみ。これは滝川播磨守具知の隠居後の変名で、実際には「オロカナリ」と読める旧字を使っている。
で、充太郎のバックグラウンド。
滝川三郎四郎(のち、播磨守)の長男として(2)、嘉永3年(1850年)2月22日に生まれる。
滝川家の家禄は1200石。近江国の滋賀郡(現在の大津市伊香立付近)及び蒲生郡(現在の近江八幡市中小森付近)に領地をもつ。
居屋敷は神田駿河台にあり、748坪余りの広さ(3)。目安としては、テレビドラマで大岡越前が住んでるお屋敷あたりを想像するとわかりやすいかと。すぐ隣には小栗上野介の屋敷がある。
滝川家の祖は織田信長に仕えた滝川雄利。もと木造具康の子で、「滝川一益がわが姓なりと称して織田右府(信長)に告、これより右府につかふ」とある。
この雄利もオモシロイ人生を送ってるし、その後続いていく家系もソレはソレでおもしろいのだが、書きだすとキリがないのでここでは割愛(笑)。
1200石だから当然家臣もいる(4)。腰元もいる。女中もいる。下男もいる。そして生まれた時から乳母や付き。まごうかたなき若様だ。しかも嫡男なので一家がかける期待も大きい。毎日眼下に見える江戸城を前に、「あの城に住まう上様を、ひいてはこの国を、我が身を賭してでも守りゆくのが我らの務め」と聞かされて育ったに違いない……と、勝手に推察。
後に大鳥圭介が具綏(充太郎)の墓碑文の中で、「君少ニツ捷敏豁達小事ヲ屠セズ」 と評している。
安政6年(1859)7月22日、弟・規矩次郎誕生(明治2年5月に滝川家の家督を相続。のち、海軍少将)。
元治元年(1864)5月、弟・銀三誕生(のち、小林ことの養子となり会社社長)。
ずいぶん後になるが明治5年(1872)4月に妹・コト誕生(のち、海軍大将名和又八郎夫人)。誕生日はわからないがもうひとり末の弟(名は「壱三」か)がいて三浦氏を称したという。
母親の名前は伝わっていないが、斎藤氏の出身だという。同一人物かどうかはわからないが、後年弟が同居していた母親の名前は「咲」となっている。


■  戊辰前の充太郎 ■

万延元年(1860)9月22日、かぞえで11歳の時に三郎四郎の惣領(嫡男)として将軍家茂に初御目見を果たす。(「続徳川実紀」。ちなみに「藤岡屋日記」の中では、この日初御目見を果たした三郎四郎の惣領は「定三郎」となっている。…いったい誰がどの時点で伝言ゲームに失敗したのか、ヒジョーに気になるところである)。
9月25日にはお隣さんの小栗家が瀧川家に贈った「歓肴」の支払いもしてたりして、近所付き合いはうまくいってた模様ナリ(笑)。
その後充太郎がどの時点でどんな御役についたのかはわからないままである。滝川家は御小性組(5)の家筋なので、まず最初は御小性組に編入されたのではないかと推察するが、なんにせよ確たる証拠はない。
慶応2年(1866)、横浜の太田陣屋でのフランス兵式伝習に参加。歩兵差図役並となる。翌3年(1867)歩兵差図役となり、本隊とともに大坂に至り警備にあたった。(「瀧川具綏墓碑文草稿」)
この頃の充太郎の行動を、小栗上野介の日記の中でも知ることができる。
現存する小栗の日記は慶応3年と4年のもののみだが、その短い間にも充太郎が小栗家を訪問するさまが何度か見受けられる。とはいえ小栗の筆致は無駄がなく、なんの用事で訪れたものかサッパリわからないことが多いのだが、一度だけ、こんな興味深い記述がある。

慶応3年(1867)8月5日
「又一方へ戸田悟水・日下寿之介・滝川充太郎・鳥居八十五郎・福島時之助相招申候」

各人についての詳しい説明は別ページ参照のこと。
極めて簡単に紹介するとこんなカンジである。

又一…小栗上野介の養嗣子。横浜仏語伝習所の第一期生。
戸田悟水…詳しいことはわからないが、戸田肥後守の関係者であることは確か。
日下寿之介小栗上野介の叔父・日下数馬の養子。横浜仏語伝習所卒業生。
鳥居八十五郎…鳥居越前守の養子。横浜仏語伝習所の第一期生で、又一とは同期。
福島時之助…横浜仏語伝習所卒業生。又一のルームメイト。箱館戦争に通弁方として参加。

きらびやかな経歴にくらくらきそうだ。フランス語、フランス語、フランス語……(遠い目)。
いったいどういう理由で招かれたのかはわからないので、各人と充太郎の間にどのくらいの交流があったのかはナゾのままである。しかし、充太郎の家から見て又一は右隣、日下寿之介は左隣(元治年間以降)、戸田肥後守は真後ろという、超接近型ご近所さんズ。さらに戸田悟水以外は全員伝習隊に関係していたことがわかっているので、やはりそれなりの付き合いがあったと考えるほうが自然なのかな、とも思う。


■  「伝習隊」の中で ■

慶応4年1月、鳥羽・伏見戦に従軍。奮戦。
敗戦した旧幕軍の兵たちは、それぞれ隊ごとに帰府したと伝えられている。
陸路で帰ったものもいたらしいが、その大半は紀州へ落ち延びてそこから船に乗ったとか。
シャノワンヌから勝へ宛てた手紙(1/28)に「大坂に行っている伝習第一大隊が江戸に帰って来た時には、メッスローに報せて伝習第二大隊を迎えに出した方がいい」とあること、「小栗日記(2/6)」に「滝川忘太郎来ル」(6)とあることから、伝習隊が江戸に戻ったのはこの間だったと勝手に推察。
※勝海舟の日記にも、2月アタマに「紀州へまわした船がぞくぞく帰ってきた」という記述があります。

東帰後、差図役頭取に昇進。
江戸城明渡しの翌日(4/12)、伝習隊をはじめとした旧幕府の歩兵部隊の多くが江戸を脱走して、国府台に終結。歩兵奉行・大鳥圭介を総督に据え宇都宮に向けて進軍していた彼らのもとに、14日、充太郎が宮氏岩太郎とともに合流する。
この頃充太郎は伝習隊大手前大隊(=伝習第一大隊)の頭取だったが、陸軍副総裁藤沢志摩守(7)より「第一大隊 頭」を拝命し、残兵を率いて遅れて国府台に向かうことになった。
しかし、第一大隊の頭はすでに、衆評で推された会津脱藩の秋月登之助が名乗っていたため、「大いに不都合なりしと云う」ことになり、充太郎は第一大隊を出て14日に第二大隊(小川町大隊)に合流・転属。その後は大鳥の参謀となる。
野州・会津戦線では、軍鑑を兼ねつつ三番四番小隊を率いた武井村での初戦、沼間慎次郎とともに2小隊を率いた今市西関門攻め、会津公より羅紗を贈られるほどの奮戦を見せた小原村での一戦などにおいて、勝利または健闘する姿を見せている。
全体としてみれば敗北に終わった戦のなかでも、滝川個人は勝つか、勝たないまでも「負けてない」戦を続けているような印象を受ける。
7月末頃、鈴木蕃之助(そして宮氏)らとともに会津田島において新兵の取立てに従事。母成峠の戦いで大敗を喫し、その後仙台入り。
隊の再編が行われ、「諸隊の士官は伝習士官隊」となった際に、その隊長となった。
その後榎本艦隊に乗組み、 蝦夷地に渡航する。

※この蝦夷地へ向けての乗船の際、銃創を負い瀕死となっていた浅田麟之助を「敵に捕らえられて死ぬも憐れ、船での移動に耐え切れずに死ぬも憐れ。いっそ眠っている隙に斬首して安らかに殺してやろう」と、池田傳という人物に命じてその命を絶とうとした。このことが大川正次郎に知れ、「どうしてもというのなら人に命ずることなく自分でやれ」と諭され、「我又斬るに忍ず」と殺害をあきらめ、浅田の蝦夷行きが決まったという。(「浅田惟季北戦日記」)

■  箱館の冬、そして春 ■

箱館政府内において歩兵頭並となり、第一レジマン(連隊)第一大隊長として箱館を守ることとなるのだが、ここで再び小野権之丞と杉浦清介の日記の中に「戦っていない充太郎」の姿が現れる。
元奥詰銃隊、箱館政府では外国掛だった杉浦清介(当時44歳)の日記より3月12日の部分を抜粋。
「晴、春光椋人、夜訪高彦于山奇楼、隣席有瀧川、宮内二人、語次頗厭フ、十二時帰舎」
訳してみると「晴。春の光に人もかすむ(てな感じ?)。夜高彦を訪ねて山奇楼に行く。隣席に瀧川と宮内(宮氏のことか?)の二人有り。言葉の続き(話のついで)をすこぶる嫌に思って避ける。十二時帰舎」
イキナリ嫌われてるし、充太郎(笑)。
続いては小野権の日記。
明治2年3月25日。宮古湾において旧幕海軍は艦船「甲鉄」を奪い取ろうと決死の接舷作戦に出たものの、結果は無残なものとなった。死傷者も多く出たため、箱館病院では入院中の軽病人を退院させて新たに宮古湾での傷病者を収容するなどの対応に追われている。
当然彼らを見舞うものも多かったようで(まだ本格的な戦闘が始まる前だしな~)、翌26日には松平太郎とブリュネが、27日には榎馬(榎本対馬のことか?)や荒井郁之助などを筆頭に、大勢の人間が箱館病院に押しかけた。
我らが滝川も(「瀧川等」とあるので連れを率いて?)夕方頃に見舞いに訪れているのだが「失敗の挙動有り」とのことで病院の調役である小野権之丞(会津藩士・当時52歳)に追い返されていたりする。 しかし、いったいナニをやらかしたのか充太郎……。「酒やら煙草盆やらを見舞いの品として持ち込もうとした」とか、ネタ的発想しか浮かばないあたりがちょっと悲しい(笑)。
4月7日の記述には、小野が市中を一望しようと七面社へ登ってみたところ、なんとそこでは滝川と宮内(宮氏?)達が女を数人召し連れて「見苦しき体(←ホントは身偏に体という字)」(8)だったので、そこには立ち寄らなかったとある。七面社とは文字通り七面山(現在の船見町付近)にあったお社で、当時はこの傍らに茶屋があり、どうやら滝川達はそこに芸子さんをあげて花見と洒落込んでいた模様ナリ。
新政府軍との戦いがいよいよ間近に迫り、箱館在留中の外国商人達に自国の軍鑑へ立ち退くよう通達されたり、一般市民たちにも「弾丸の至らざる場所」に非難するよう触れが出されたり、出火消防の為の処置が施されたりと、市内はにわかに慌しい空気に包まれていた頃のことであった。

明治2年4月。箱館守備にあたっていた充太郎だが、膠着状態の二股口の戦闘に箱館から2小隊を率いて途中参加。自ら敵陣に斬り込み奮戦したが、猛反撃を受ける結果となる。伝習歩兵隊隊長の大川正次郎にその無謀を責められたものの、新撰組の大野右仲や土方歳三が割って入り、仲裁した。
ちなみにこのときの戦闘で、弥三郎という兵卒が銃創を揮って敵中に踊り入り、2人を倒して討ち死にしたのだが、のちにその遺体を見てみると、敵兵の手により、耳鼻を削ぎ落とされ目玉は繰り抜かれていたという。(「北洲新話」ほか)。
二股口で充太郎が敵兵の遺体を毀損したという説もあるのだが、なにを典拠としているのか今ひとつわからない。新撰組の島田魁の日記がソレなのかなという気もするが、あれは上記の事件をはしょって書いたために充太郎が毀損したみたく読み取れるようになったんじゃないのかな……と、滝川贔屓の私はヨんでいる(←N村氏の新撰組本の中にも『…と島田魁日記にある』とか書かれてるんで、ほぼそんな感じらしい。たくもー、島田め!)。
5月11日の箱館総攻撃の日には、突如現れた敵にあたるため七面山に登って迎撃するが、支えることができずに後退。市街戦中に脛に受傷する。五稜郭に向かう途中に土方歳三や大野右仲らと会い、大野に伝習士官隊の指揮を預け、自身は千代ヶ岱へ退いている。その後も入院を断り奮戦を続けたが、16日の千代ヶ岱玉砕の早朝、前夜から来ていた大鳥に従い伝習士官隊を指揮して離脱。この前日の15日には松平太郎が「千代ヶ岱を捨て五稜郭に合せよ」と勧告に来ても「滝川は執って聞かず」とあったのに……どういう心境の変化だろうかと、チと妄想。18日、五稜郭の開城で降伏した。

■  その後 ■

箱館の称名寺に仮収容され、青森を経て弘前の最勝院、同年10月箱館弁天台場に移り謹慎。この時、足袋草鞋の支給もろくになく、多くのものは裸足で雪の上を歩いて台場に入ったという。
約500名が6つの長屋に収容され、それぞれに責任者である「取締」が置かれた。充太郎は大川正次郎とともに降伏人三番小屋取締に任命されている。
長屋の中ではさらに10人ごとに組分けし、それぞれに責任者を選出させた。
明治3年4月に赦免となり、徳川家が移封された静岡に帰参した。

明治4年、大川正次郎野間政徳らと陸軍に入隊し、東京鎮台教官となる。明治5年3月2日の通達で陸軍少尉心得から陸軍中尉に。同月の別の通達では、「十四番大隊教官」。
私が資料を読み違えていなければの話だが、明治5年3月の時点で瀧川具綏は「東京鎮台第十四番大隊教官」の職を「御免」となり、その後「非職士官」として兵学寮へ。そこで各科を学んだのか教えたのかは不明。この兵学寮での授業は基本2年間と定められていたらしい(ちょっと眉にツバつけといてください…)。
その後は徴兵副使として各地で徴兵に当たっていたようなのだが、明治7年2月の記録を見るとコレがとんでもないハードスケジュール。「2/15~ 浜松」「2/21~ 愛知」「3/3~12 岐阜」「3/15~19 滋賀」てなカンジで(※コレは第三軍管用のスケジュール。通達の写しがあまりにも達筆なので確定できないが、おそらくこの時点で第三軍管徴兵副使に任ぜられているようである)。
明治7年12月20日の通達では、「第二軍管徴兵副使を以て巡回中秋田県に於いて県官諜(←違う字かも?)を召集せし年齢差異之者を井石大尉専断を以て徴募に充つるに同意せし科」により、陸軍少尉の吉原光賢とともに謹慎十日を仰せつけられている。そして年明け(&謹慎明け)の翌8年1月4日には一等給下げられ……哀れなり、滝川。これを「どこまでも上官運が悪い」と取ってしまうのは私だけでしょうか(爆)。
8年3月17日の時点では「第一軍管徴兵副使陸軍中尉」の任に着いていて、同年4月9日には「第一軍管徴兵副使」として陸軍中尉小林勝彬などと一緒に帰京届を出している。
8年4月27日には従七位に叙される。
9年に中尉の身で第二師管後備軍司令心得の任につく(第二師管の営所は佐倉)。
(ただし9年10月16日の時点では第一(師管?)後備軍司令代理をしていた)

同年の西南戦争では別働第二旅団に所属し、第十九中隊を率いて人吉攻略戦に参加。
5月31日、熊本県球磨郡瀬戸山で敵を追撃したが十分な応援を得られず、充太郎(この頃は具綏)は剣を揮ってバラける兵を叱りとばして殿して退くものの、ついに賊徒に包囲される。この時、負傷した兵卒・津山與太郎の「吾カ銃ヲ以テ賊ヲ射撃スベシ」という壮烈なる言葉と顔に感じ入り、その銃を借り受け応戦したが、頭に被弾し死亡したと伝わっている。享年27歳。
※このとき伝習隊での戦友であった宮氏義利が会計官として同じ別働第二旅団に所属していた(鐘ヶ江さんの調査)。瀧川の遺体を彼が荼毘に付し、家族のもとへ贈ったという(入潮さんの調査……「瀧川具綏墓碑文草稿」)。

江戸脱出の際、伝習第一大隊の残兵を率いてともに江戸を出、また、東北・箱館においても彼の傍らにありサポートし続けた宮氏義利が、奇しくもこの時同じ別働第二旅団に属し、瀧川の遺骸の火葬に立ち会っていたことには、ただただ運命の妙を感じる。
明治14年4月9日までに「寡婦再婚復籍」により恩給証が還納されており、そこに記された妻の名は「津多」となっている。子供はいなかった。




※ 注釈 ※

(1) 「萬朝報」
明治25年11月1日に黒岩涙香によって発刊された絵入ふりがな付の日刊新聞。内村鑑三、幸徳秋水らも記者として活躍したが、日露戦争に反戦を唱え退社した。
…それにしても、なんでまたそんな後になってから充太郎のことが記事になってるんでしょうか?弟妹関連で注目されたのかな。
「絵本明治太平記」に、二股口や瀧川戦死の様子があるところをみると、当時からちょっとした有名人だったのでしょうかね?


(2) 「長男として」
とはいえ、そのようにキパッと言い切った資料はこれまで少なかった。「続徳川実紀」に「滝川充太郎=三郎四郎惣領」の記事があること、充太郎の弟・規矩次郎誕生の数日後に小栗の家計簿に滝川家への祝品の支払い記述があること、あとは名前(具知と具綏)などから、このふたりは親子、と私は判断くだしたわけですけど、最近になってようやく「瀧川具綏墓碑文草稿」の記述でウラがとれた感じです。ブラーボゥ!
あと、名前を「みつたろう」とフっているのは当初私の好みだったわけですが(弟が「きくじろう」だから、「じゅうたろう」よりはこっちがあいそうかな、ということで)、丸毛利恒のいくつかの著作においても「みつ」のルビがふってあるので、コレで合っているのかと。


(3) 「居屋敷は神田駿河台にあり、748坪余り」
とはいえ、慶応4年まで父親が現役バリバリで働いているので、これはあくまで父親のもの。充太郎は最後まで(慶応4年まで)自分の屋敷は拝領せず、「部屋住み」で通したものと勝手に推察。
滝川家の跡地には現在日大の関連施設が建っている。お隣さんだった小栗上野介の屋敷の跡地は現在YWCAが建ち、その前には往時をしのぶ碑も建っている。


(4) 「家臣もいる」
石高に応じて召抱える家臣の数(←下限だろう)が定められていた。
200石で5人、とか聞いたような気がするけど。ホントかな? 平和な時代が長かったので、江戸期後半には家臣の代わりに女中を雇ったりしてた、というハナシも聞いたことありますが。なんにせよウロオボエです。そのうちまた調べてみます。


(5) 「御小性組」
「御小姓」とはまったく別のもの。城内にて将軍の警護にあたる番方(=戦闘員)のひとつ。先祖が将軍のお側近くに仕えた実績から登用されることが多く、同じく将軍の警護にあたった「御書院番」とあわせて「両番」と並び称され、旗本の中でも名門の子弟が出役した。「御小姓組」は、本丸詰(現将軍の警護)と西丸詰(次期将軍の警護)とがあった。


(6) 「滝川忘太郎」
小栗の日記はけっこうな達筆で書かれているので、おそらくコレは「充太郎」の書きマチガイか読みマチガイであろうと私は勝手に思ってる。同日記には「滝川寛太郎」なる人物も登場するが、コレもあやしいな、と。だって、字面が似てるじゃん?


(7) 「陸軍副総裁藤沢志摩守」
蘭学研究が許された桂川家から藤沢家へ養子へ入る。江戸開城に賛成した恭順派で、「勝海舟の参謀(安西愈 著)」。陸軍畑には疎い勝を支えたとされる。
…ウマいことハメられて、江戸から遠ざけられちゃったんかねえ、充太郎。


(8) 「見苦しき体」
小野権のおっさん、会津藩士だしな……。
会津っつったらアレよ。「戸外で婦人と言葉を交えるべからず」(by什の誓い)だもんよ。女性ヌキの花見がそう楽しいとも思えんがどうなのか。



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■最終更新日時: 2011年09月08日 (木) 15時58分01秒


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