ベートーベン
施死流が約6時間半に一度出してくる名前。かの有名な音楽家のことを指していると思われる。
施死流の書き込みによると、ゴッホが風邪を引いていることに関係があるらしいが・・・
以下、Wikiより引用。
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven, 1770年12月16日ごろ(洗礼を受けたのが12月17日であることしかわかっていない) - 1827年3月26日)は、ドイツの作曲家。ドイツのボンに生まれる。音楽家として最高の『楽聖』の称号が与えられている。
ベートーヴェンの音楽は、フランツ・ヨセフ・ハイドンやヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトらが形成した古典派音楽の集大成であり、かつ、中期以降の作品は、ロマン派音楽への扉を開くものとなっている。 スケルツォの導入(第2番)、従来のソナタ形式を飛躍的に拡大(第3番「英雄」)、旋律のもととなる動機やリズムの徹底操作(第5番、第7番)、標題的要素(第6番「田園」)や声楽の導入(第9番)など、革新的な技法を編み出している。その作品は、古典派が尊重する様式美とロマン的な表現主義とをきわめて高い次元で両立させており、ドイツ音楽の理想的象徴的存在として、以後の作曲家のほとんどに影響を与えた。同時に、第5交響曲に典型的に示されている「暗→明」、「苦悩を突き抜け歓喜へ至る」という図式は劇性構成上の規範となり、のちのロマン派や国民楽派の多くの作品がこれを追随した。
また、ベートーヴェン以前の音楽家は、宮廷や有力貴族に仕え、その作品は公式・私的行事のBGMや機会音楽として作曲されることが大部分であったが、ベートーヴェンはそうしたパトロンとの主従関係を拒否し、むしろ一般大衆に向けた作品を発表する、自立した音楽家の嚆矢となった。ベートーヴェンが史上初めて音楽家=芸術家であると公言し、音楽の歴史において重要な分岐点となる。
1770年12月16日、神聖ローマ帝国(現在のドイツ)のボンにおいて、父ヨハン、母マリアの間に生まれる。幼いころは、歌手であった祖父の支援により生計を立てていた。幼少から酒飲みの父親から強制的な音楽の教育を受け、10代のころには、父に代わって家計を支えていた。父の目的は金であった。ベートーヴェンの才能を利用して金を得ることしか考えていなかった。父親は歌手だったが、尋常でないほどの酒飲みであり、そのためにのどを患っていた。そのためほとんど収入はなかった。母親は父親とは対照的にベートーヴェンを大切に育てた。ベートーヴェンの才能が認められ、初めて収入を得たときには涙を流して喜んだという。
1778年、ケルンのシュテルンガッセ音楽堂での演奏会に出演する。このとき、年齢を若く偽っていた。
16歳のときに初めてウィーンでモーツァルトに出会う。このときモーツァルトはあまりの上手さに「この青年は立派な音楽家になるに違いない」と予言したという。22歳ではヴィーンで活動を開始、ハイドンに師事する。当初はピアノの即興演奏で名声を高めた。20歳代後半から持病の難聴が悪化し、32歳のとき「ハイリゲンシュタットの遺書」と呼ばれる遺書を書くが、このときの絶望から再起し、34歳のときに交響曲第3番「英雄」を発表。その後約10年間は、中期を代表する名作が次々に書かれ、「傑作の森」とよばれる。
「英雄」交響曲については、ベートーヴェンはフランスにおいて破竹の進撃を見せていたナポレオンを念頭に第3交響曲を書き上げたが、ナポレオンが皇帝になったと聞いて『彼もまた、俗物であったか』と激怒し、作曲したばかりの楽譜をばらばらに引きちぎってしまったという逸話があり、楽譜の最初のページに書いてあったナポレオンへの献呈の言葉を荒々しく消したペンの跡が現在も確認できる。このように、ベートーヴェンは政治的には自由主義者、共和主義者であり、このことを全く隠さなかったため、19世紀に入って敷かれたメッテルニヒによるウィーン体制のもとでは「反体制分子」と見られ、周囲にはスパイがつけられていたと言われている。1812年、テプリチェにおいてドイツを代表する文豪ゲーテと会い、二人で散歩をしていた際に、オーストリア皇后の一行と遭遇した。ゲーテが脱帽・敬礼をして一行を見送ったのに対してベートーヴェンは昂然として頭を上げ行列を横切ったというエピソードも残されている。
晩年は、慢性的な腹痛や下痢など徐々に悪化する体調に加え、甥カールをめぐる養育権争いやカールの自殺未遂事件が起こり、私生活では苦悩の日々を送っている。しかし交響曲9番やミサ・ソレムニスといった大作を発表した前後からの晩年の作品群は、難解かつ崇高な精神性を湛えており、ベートーヴェンが最後に到達した境地の高さを示すものとなっている。
1826年、もはやベートヴェンは病に罹っており、シューベルトなどが見舞いに訪れるなどしていたが、翌年1827年にその波瀾に満ちた生涯を終えた。56歳であった。葬儀にはのべ3万人もの人々が駆けつけ、異例のものとなった。 伝説によれば、ベートーヴェンの臨終の間際、すさまじい雷鳴とともに稲妻が閃いたが、彼は右手の拳を振り上げ厳しい挑戦的な顔をし、遥か高みを数秒間にらみつけた後、その目を永遠に閉じたのだという。そして彼は臨終際、Plaudite, amici, comedia finita est.(諸君、喝采を、喜劇(お芝居)は終わった)と発したとも伝えられている。